霜月十一日之書状、当月七日到大坂披見候、然者義統*1筑後表江在陣之処、先年信長*2以下知*3、其方与島津*4和談有之処を相破、義統分国中江乱入之由、不及是非候、就夫味方中令迷惑付而、其方手間如何之由候之条、四国・西国*5人数申付、可遣相極候処、島津敗北*6之由、無是非候*7、此上者義統・輝元*8間柄儀、入定*9有之様、宮木右兵衛入道*10・安国寺*11西堂頓而可差遣候条、少々之出入*12被相止、入眼*13有之上ニおいて、島津所へも急度差遣使者、依其返事、四国・西国之者共、毛利右馬頭*14其外秀長*15を初而、何も不残為先勢申付、殿下*16にハ為見物、関渡*17辺迄可動座候、連々申通候之条、八幡大菩薩何之道にも休庵*18・義統事、非可見放儀候□□□*19安候、猶宮内卿法印*20・利休*21居士可申候□*22、
『秀吉文書集二』1767号、292頁
(書き下し文)
霜月十一日の書状、当月七日大坂にいたり披見候、しからば義統筑後表へ在陣のところ、先年信長下知をもって、その方と島津和談これあるところを相破り、義統分国中へ乱入の由、是非に及ばず候、それについて味方中迷惑せしむるについて、その方手間如何の由候の条、四国・西国人数申し付け、遣わすべく相極め候ところ、島津敗北の由、是非なく候、この上は義統・輝元間柄の儀、入定これあるよう、宮木右兵衛入道・安国寺西堂やがて差し遣わすべく候条、少々の出入相止められ、入眼これある上において、島津所へも急度使者を差し遣わし、その返事により、四国・西国の者ども、毛利右馬頭その外秀長をはじめて、いずれも残らず先勢として申し付け、殿下には見物として、関渡あたりまで動座すべく候、連々申し通し候の条、八幡大菩薩いずれの道にも休庵・義統のこと、見放すべき儀にあらず候あいだ心安んずべく候、なお宮内卿法印・利休居士申すべく候なり、
(大意)
十一月十一日付の書状、当月七日大坂に到着し拝見しました。大友義統が筑後で在陣しているところを、天正8年織田信長の下知により、そなたと島津の和平が整いました。しかし、島津がそれを破棄し、義統の分国へ攻め入っているとのこと、けしからぬことです。それによって味方が困惑していることについて、そなたの苦労が偲ばれますので、四国・九州から軍勢を差し向け派兵すると決めたところ、島津が軍を引いたとのこと。当然のことです。義統と毛利輝元の間柄でもありますので、講和を結ぶよう、宮木宗賦と安国寺恵瓊をすぐに派遣しますので、小規模の合戦をやめ、講和がなったなら島津のところへもかならず使者を派遣します。その返事次第では四国や九州の軍勢を、輝元・秀長をはじめ、残らず先遣隊を命じ、自分は物見遊山気分で赤間が関あたりまで繰り出すつもりです。何度も申しているとおり、義鎮・義統父子を見放すつもりではありませんので、ご安心を。なお詳しくは松井友閑・千利休が申し上げます。
天正8年、織田信長と近衛前久により豊後大友氏と薩摩島津氏の間で和平がなった。それを島津氏側が一方的に破棄したと述べている。
近衛前久といえば、本能寺の変直後に三河の家康のところへ出奔するなどどこか怪しげで、信長打倒計画の「黒幕」としてなにかと取り沙汰されるが、弱冠19歳にして藤原氏の氏長者・関白、左大臣にまで上りつめた華麗なる経歴をもっている。
Table. 近衛前久略歴
秀吉による私戦停止命令=「平和」を今日「惣無事」と呼んでいるが、信長も同様のことを行っていた。
*1:大友
*2:織田
*3:天正8年8月12日島津義久宛織田信長書状案、同日近衛前久宛織田信長書状、同9月19日島津義弘宛近衛前久書状。「島津家文書之一」98~100号
*4:義久
*5:西海道の国々=九州
*6:敗走すること
*7:当然の成り行きである
*8:毛利
*9:仏教用語で、心を統一し無我の境地に入ること。ここでは戦争をやめ講和する意と解釈した
*10:宗賦
*11:恵瓊
*12:争いごと、揉めごと
*13:対立していた者たちがもとどおりの関係に戻ること
*14:輝元
*15:羽柴
*16:秀吉
*17:長門国豊浦郡赤間関カ
*18:大友義鎮
*19:間可心カ
*20:松井友閑
*21:千
*22:也
*23:天正13年
*24:「判」は花押の意。朱印ではない
*25:友
*26:義統