日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年5月13日豊臣秀長宛豊臣秀吉朱印状写(6/止)

 

一、豊前国ノ儀、是モ不入城者ワリ、豊前ト豊後之間城一ツ、馬カタケ*1ト右境目城ト遠候ハヽ、其間ニ城一ツ、豊後之内ニ可置城、馬ヵ嶽・小倉*2四モ五モ可置候間、引足ニ*3右ノ普請アルヘク候、国之者ニモ忠不忠ヲ相糺、知行可遣候間、其分心得、諸事無油断申付、細〻少之儀モ、以一書御本陣ヘ、毎日成トモ思案不及事於有之者、可申上候、依其御返事覚悟*4可然事、

 

一、今度高城*5之儀者*6、御意*7ヲ不請儀、分別違ニ候得トモ、免候儀其方タメニハ外聞可為迷惑*8候間、其方諸事ニ存出シ*9可然候、高城之様成義ニ御意ヲ不請候ハヽ、重而者成敗可申付候、得其意尤候事、

 

一、右之条〻、猶両人*10可申也、

 

   天正十五年

     五月*11三日 朱印

         羽柴中納言殿*12

(三、2185号)
 
(書き下し文)
 

一、豊前国の儀、これも入らざる城は割り、豊前と豊後のあいだに城一つ、馬ヶ岳と右境目城と遠くそうらわば、そのあいだに城一つ、豊後のうちに置くべき城、馬ヶ岳・小倉に四つも五つも置くべく候あいだ、引足に右の普請あるべく候、国の者にも忠・不忠を相糺し、知行遣すべく候あいだ、その分心得、諸事油断なく申し付け、こまごま少しの儀も、一書をもって御本陣ヘ、毎日なるとも思案に及ばざることこれあるにおいては、申し上ぐべく候、その御返事により覚悟然るべきこと、

 

一、今度高城の儀は、御意を請けざる儀、分別違いにそうらえども、免し候儀そのほうためには外聞迷惑たるべく候あいだ、そのほう諸事に存じ出し然るべく候、高城のようなる儀に御意を請けずそうらわば、かさねては成敗申し付くべく候、その意を得もっともに候こと、

 

 一、右の条々、なお両人申すべきなり、

 

(大意)
 
一、豊前国についても不要な城は破却し、豊前と豊後のあいだにひとつだけ城を置きなさい。馬ヶ岳城と両国国境が遠すぎるなら豊後にひとつ、小倉・馬ヶ岳間に四つも五つも置くことにするので、撤退時に普請を行わせなさい。国人たちのなかにも忠誠を誓う者もいればそうでない者もいるでしょうから、精査して知行地を与えなさい。その点よく心得、油断なくしなさい。どのような些細なことでも文書でこちらへ、毎日であっても解決できないことはこちらへ報告しなさい。その返事で決めるように。
 
一、今回の高城の件のようにこちらの判断を仰がないことは思い違いも甚だしいが、許すことにしたのは外聞に響くだろうから、その点よく心得るように。今度、高城のようにこちらの判断を待たずに独断専行したら、成敗するので念頭に置くようにしなさい。
 
一、右の条々については詳しくは使者両名が申します。
 

Fig.1 馬ヶ岳城と豊前・豊後 

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①では「国之者」つまり国人や国衆と呼ばれる在地有力者には、豊臣政権にしたがう者もいれば、そうでない者もいるという秀吉の現状認識が示されている。秀吉はこうした中世的秩序を一掃するのではなく、現状を追認しつつ漸進的な路線を採用した。一掃するということは武力鎮圧をも辞さずということであり、九州平均が長期化するおそれもある。九州において秀吉は老若男女を問わず血祭りにあげてきたとみずから語っており、ドラスティックな路線を採用すれば秀吉側の損害も甚だしかったはずである。それはとりもなおさず百姓の逃散や田畠の荒廃を招き、政権を根底から揺るがすことになる。実際豊前中津の黒田孝高に対する宇都宮鎮房の蜂起や肥後の佐々成政に対する国人一揆など豊臣政権への反発が武力衝突に発展している。「惣無事」とは「叡慮」(天皇の意思)の名の下に行われるあくまで豊臣政権にとっての「平和」=「安定」に過ぎず、その実態は「平和」の強制であり、「Pax Romana」*13、「Pax Britannica」、「Pax Americana」となんら変わるところはない。

 

②は、日向高城の秀長の陣に伊集院忠棟が駆け込んできたので、島津義久・義弘両名の助命を秀吉に進言したことが彼の逆鱗に触れたことを示している。「分別違い」=心得違いの越権行為とも断じており、次回は成敗するとも述べている。「九州御動座記」5月3日条を見てみよう。

 

 

一、薩摩太平寺まで、同国高城(薩摩。日向の高城ではない。図2、3参照)より壱里、舟入

ただしここより嶋津居住鹿児嶋までは相十里あまりたる、すでにこれに御座よせらるべく候ところに、日向中納言殿へ嶋津降参の御言として、家老伊集院右衛門大夫走り入るについて、中納言殿より嶌津命のお望みについて、鹿児嶋への御動座止められ候、

 

(「大日本史料総合データベース」稿本より)

 

秀長が秀吉に島津氏の助命を「望んだ」とはあるものの「分別違い」と思われるような言動をしたとは記されていないので、何があったのかわからない。ただ、島津氏の処遇について秀吉と秀長のあいだに路線の対立があったとはいえそうである。

 

その点を踏まえて①を読むと、どんなに些細なことでも文書をもって照会せよとあり、秀長に豊前・豊後・日向三ヶ国の仕置を任せたものの、全幅の信頼を置いていたとは言えそうにない。「信用できない」ということではなく「力量不足」という意味であろうが。

 

Fig.2 日向国高城

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                   『日本歴史地名大系 宮崎県』より作成

Fig.3 薩摩国高城

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                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

 

*1:馬岳城、豊前国仲津郡

*2:豊前国企救郡

*3:撤退時に

*4:悟りを開くこと

*5:日向国諸県郡。秀長が本陣を置いていた。薩摩川内の近くにも「高城」があるので要注意。下図2、3参照

*6:「九州御動座記」5月3日条に伊集院忠棟が秀長の陣に駆け込んできたので、島津氏の助命を秀長が秀吉に申し出たとある

*7:秀吉の意思

*8:困る

*9:配慮する

*10:使者2名。通常は具体的な人名が入る

*11:十脱

*12:豊臣秀長。繰り返しになるが「羽柴」は名字、「豊臣」は氏。秀吉は「平氏」(自称)→「藤原氏」(近衛前久の猶子となる)→「豊臣氏」と「氏」が変わったのであり、「羽柴秀吉」でありかつ同時に「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)であることは矛盾しない

*13:同時代のローマ人は頽廃的な文脈で用いることもあったらしい