日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年2月11日島津義弘宛豊臣秀吉判物写

 

差上使者言上之趣被聞召届候、至肥後境目在陣之由候、雖然彼国静謐之上者*1、可有帰陣候、日州*2知行分出入之由申越候、罷上候節、是又可被仰付候、猶石田治部少輔*3可申候也、

   二月十一日*4 御自判

         島津兵庫頭*5

            とのへ

(三、2433号)

 

(書き下し文)

 

使者を差し上げ言上の趣聞こし召し届けられ候、肥後境目に至り在陣の由に候、然りといえども彼の国静謐の上は、帰陣あるべく候、日州知行分出入の由申し越し候、罷り上り候節、これまた仰せ付けらるべく候、なお石田治部少輔申すべく候なり、

 

(大意)

 

使者を遣わし申し上げてきた趣旨について確かに聞き届けました。薩摩肥後国境に陣を構えたとのこと、しかしながら肥後はすでに鎮圧しましたので帰陣するように。日向の知行分についてトラブルがあるとのこと。上京したさいにでも裁定を下すことでしょう。なお詳しくは石田三成が口頭にて申します。

 

 

本文書は石田三成が使者として島津義久のもとへ赴きもたらされたものである。豊臣政権中枢と諸大名間の命令伝達をスムーズに行い、また大名権力を服属させ、後見する役割を担った者を取次という。カタカナ語で「リエゾン」といった方がわかりやすいかもしれない。

 

天正15年6月秀吉は九州国分を下表のように行った。

 

Table.1 天正15年九州国分

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日向国は島津久保*6、伊東祐兵、秋月種長に与えられていたが、「日州知行分出入」とあるように知行地をめぐる内紛が起きたようである。天正16年8月5日あらためて日向国の国分が行われた。その結果が下表のとおりである。

 

Table.2 天正16年8月日向国知行割

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知行割の単位は面積で、1ヶ郷の最大面積300~700町に対して最小面積が数町程度とかなりばらつきがあり、大雑把であることから「既存の帳簿」*7をもとにした、あるいは島津氏の申告のとおりに行われた可能性が高い。問題とされているのは実際の面積や石高などではなく「当知行」状態の「安堵」という、上級権力による土地領有権の保証である。

 

これを地図上にプロットしてみた。

Fig. 天正16年日向国知行割分布

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                   『日本歴史地名大系 宮崎県』より作成

この知行割でも入組状態は解消していない。それ以前はさらに錯綜を極めていたものと思われ、そうした事情が「日州知行分出入」という島津領国内の不安定な状況を作り出していた可能性が高い。

 

*1:肥後国人一揆を鎮圧した以上

*2:日向国

*3:三成

*4:天正16年

*5:義弘

*6:義弘の息

*7:「建久図田帳」など