日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年3月30日黒田孝高宛豊臣秀吉朱印状

 

 

態染筆候、其面事、早日向国へ乱入之由候、其分*1候哉、敵ハ何方ニたまり*2有之哉、いつれの城を取巻候共、人数不損様ニ可申付候、諸事中納言*3遂相談、諸陣中へ心を添、無越度様ニ可申付事肝要候、其面様躰無指儀*4候共、切〻可言上候、殿下*5昨日至り馬岳*6御着座、明日秋月*7表へ被移御座候条、彼表急被仰付、吉左右*8可被仰聞候、其元儀細〻書付可言上候、雖不及仰候、馬をも不取放様ニ*9堅可申付候、於由断者不可然候也、

   三月卅日*10(朱印)

     黒田勘解由とのへ*11

 

(三、2138号。『黒田家文書』第1巻、87号)

 

(書き下し文)

 

わざわざ染筆候、その面のこと、はや日向国へ乱入の由に候、そのわけ候や、敵はいずかたに溜まりこれあるや、いずれの城を取り巻き候とも、人数損なわざるように申し付くべく候、諸事中納言相談を遂げ、諸陣中へ心を添え、越度なきように申し付くべきこと肝要に候、その面の様躰指たる儀なく候とも、切〻言上すべく候、殿下昨日馬岳にいたり御着座、明日秋月表へ移られ御座候条、かの表きっと仰せ付けられ、吉左右やがて仰せ聞けらるべく候、そこもと儀細〻書付言上すべく候、仰せにおよばず候といえども、馬をも取り放さざるように堅く申し付くべく候、由断においては然るべからず候なり、

 

 

 

(大意)

 

一筆したためました。そちらの戦況について、早々と日向国へ攻め込むとのこと。戦況はどうなっているのか。敵軍はどこに集まっているのか。ともかくどこの城を包囲しようとも兵士を損なうようにしなさい。万事秀長と相談し、各陣営に対し念を入れ、失態のないように命ずることが大切です。そちらの様子については大したことがなかろうと逐一報告しなさい。昨日馬ヶ岳城に到着し、明日は秋月まで移動します。彼の地も必ずや平らげ、吉報もすぐに耳に入ることでしょう。こまごまと書面にしたため報告しなさい。秀吉の判断には及ばないと思っても油断しないように。

 

 

 Fig.   秀吉軍の行軍

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                   『日本歴史地名大系 大分県』より作成

島津攻めにあたっての注意点を黒田孝高に説いた文書である。孝高にもっと慎重に事を進めるよう促している*12。孝高といえば軍略家として知られるが、ここではむしろ秀吉が孝高に手取り足取り戦術を教え諭している。2月22日付*13、3月16日付*14、同18日付*15、同20日付*16、同21日付*17、22日付*18朱印状はいずれも孝高への戦術指南を内容とするもので、いずれもいわゆる「軍師」とはほど遠い。本当に孝高が軍略家として才気溢れる人物だったのか、秀吉発給文書に拠ればきわめて疑わしいと言わざるを得ない。 

 

*1:事情、戦況

*2:溜まる・堪る。集まる

*3:豊臣秀長

*4:指したる儀。大したこと

*5:秀吉

*6:豊前国京都郡馬ヶ岳城、下図参照

*7:筑前国夜須郡、同上

*8:吉報

*9:「手綱を緩めないように」の意か

*10:天正15年

*11:孝高

*12:同日付で同内容のものが小早川隆景宛にも発給されている。2139号

*13:2103号

*14:2116号

*15:2117号

*16:2120~2121号

*17:2122~2123号

*18:2125号