日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年9月8日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状

 

能島事*1、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断*2曲事、無是非次第候間成敗之儀、自此方*3雖可被仰付候、其方持分*4候間、急度可被申付候、但申分*5有之者、村上掃部*6早〻大坂へ罷上、可申上候*7、為其方成敗不成候者*8被遣御人数*9被申付候也、

  九月八日*10(朱印)

    小早川左衛門佐とのへ*11

 

(三、2295号)

 

(書き下し文)

 

 能島のこと、このうち海賊仕るのよし聞こし召され候、言語道断の曲事、是非なき次第に候あいだ成敗の儀、此方より仰せ付けらるべく候といえども、その方持ち分候あいだ、きっと申し付けらるべく候、ただし申し分これあらば、村上掃部早〻大坂へ罷り上り、申し上ぐべく候、その方として成敗ならずそうらわば、御人数を遣わされ申し付けらるべく候なり、

 

(大意)

 

能島の城を明け渡さずいまだ海賊行為を行っていると聞いている。許しがたい暴挙であり、成敗の軍勢を当方より差し向けようと考えたが、そなたの「持ち分」であるから必ずや対処されることであろう。ただし、言い分があるのなら村上元吉を早速上坂させ、申し開きをするように。小早川として対処できないときはこちらより派兵する。

 

 

本文中の敬意表現のうち、秀吉自身に対するものを黒の下線隆景に対するものを赤の下線で区別した。

 

 Fig. 能島周辺図

現在周辺島嶼部は本州四国連絡橋尾道今治ルート*12によって結ばれている。本四連絡橋にはほかに神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート*13がある。

f:id:x4090x:20210724211949p:plain

                   『日本歴史地名大系 愛媛県』より作成

 天正13年11月1日、隆景は村上武吉・元吉父子にあてて務司城と中途城の明け渡しを求める起請文をしたためている*14

 

秀吉はまず隆景に領国の治安維持を命じ、手にあまればみずから軍勢を派遣すると書き送っている。このように二段構えの手続きを踏んでいる点は興味深い。また村上氏に何か言い分があるのなら上坂し、申し開きをする機会を与えており、豊臣政権下における紛争処理システムを垣間見ることが出来る。

 

*1:伊予国、能島村上氏の築いた海賊城。下図参照

*2:「言葉で表現する道を断たれる」の意。「きわめて立派である」と「あまりにひどい」の両方向に分かれる

*3:秀吉

*4:担当する地域

*5:言い分、主張

*6:元吉

*7:申し開きをせよ

*8:小早川氏として対処できないときは

*9:「御」がついているので秀吉の軍勢

*10:天正15年

*11:隆景

*12:通称「瀬戸内しまなみ海道」

*13:通称「瀬戸大橋」。JR「瀬戸大橋線」も通称で、正式には「本四備讃線」=州の中と国の岐を結ぶ幹線という、いたってオーソドックスで国鉄時代の「古き良き伝統」に則った命名がなされている

*14:「大日本史料」11-22、94~95頁