日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年11月15日鍋島直茂宛豊臣秀吉朱印状

 

 去月十二日之書状、一書*1之旨被聞召候、殊綱一懸*2、志之程悦思召候、

 

一、肥後国〻諸侍一揆共、陸奥守*3仕様悪由申候て、企謀叛之族、無是非次第候、就其其方事、行*4等無由断之段、尤苦労共候事、

 

一、七郎左衛門尉*5ニ被遣候城・知行へ、在陣之留主をねらい、西郷*6打入之由候、彼者条〻*7曲者*8候之間、急度討果存分ニ申付、七郎左衛門尉二彼知行可相渡事肝要候、自然龍造寺*9手柄ニ不成候者、幸明春御人数被差遣候条、其節可被仰付候、得其意、聊卒尓之動*10仕間敷候事、

 

一、大村*11・畑*12・草野*13・有間*14儀、出人数無別条之由、重〻申越候条、小西摂津守*15被差遣、龍造寺相動候同前ニ、諸事覚悟可仕由被仰出候、定上意*16之段、相背間敷候哉事、

 

一、年内無余日候之間、何之道二も明春者大和大納言*17ニ御人数十万計相副被差遣、国〻逆徒等遂糺明被加御成敗、国〻置目等被遣御念可被仰付候条、可得其意事、

 

一、龍造寺并其方事、諸式無如在*18様令覚悟、忠節専用思召候也、

 

   霜月十五日*19 (朱印)

      鍋島飛騨守とのへ*20

 

(三、2383号)

 

(書き下し文)

 

 去る月十二日の書状、一書の旨聞こし召され候、ことに綱一かけ、志のほど悦び思し召し候、

 

一、肥後国〻諸侍一揆ども、陸奥守つかまつりよう悪しきよし申し候て、謀叛を企つるの族、是非なき次第に候、それについてその方事、行など由断なしの段、もっとも苦労とも候こと、

 

一、七郎左衛門尉に遣わされ候城・知行へ、在陣の留主をねらい、西郷打ち入るのよしに候、彼の者条〻曲者に候のあいだ、急度討ち果たし存分に申し付け、七郎左衛門尉に彼の知行相渡すべきこと肝要に候、自然龍造寺手柄にならずそうらわば、幸い明春御人数差し遣わされ候条、その節仰せ付けらるべく候、その意を得、いささかも卒尓の動きつかまつるまじく候こと、

 

一、大村・畑・草野・有間の儀、出人数別条なしのよし、重〻申し越し候条、小西摂津守差し遣わされ、龍造寺相動き候同前に、諸事覚悟つかまつるべきよし仰せ出だされ候、さだめて上意の段、相背きまじく候やのこと、

 

一、年内余日なく候のあいだ、何の道にも明春は大和大納言に御人数十万ばかり相副え差し遣わされ、国〻逆徒など糺明を遂げ御成敗を加えらるべく、国〻置目など御念を遣わされ仰せ付けらるべく候条、その意を得べきこと、

 

一、龍造寺ならびにその方事、諸式如在なきよう覚悟せしめ、忠節専用に思し召し候なり、

 

(大意)

 

 10月12日付の書状、ひとつがきの旨確かに承知しました。特に綱一かけをお贈りくださり、ご厚意ありがたく感じました。

 

一、肥後の諸侍一揆の者たちは、成政の仕置が悪かったと主張し謀叛を企てたのは無理もないことです。それについてその方が油断なく攻撃したことは実にご苦労なことです。

 

一、家晴に与えた城および知行地へ、肥後在陣の隙を狙い、西郷信尚が伊佐早を奪還しようとしたとのこと。あの者はなかなかのやり手ですので、必ずや討ち果たしそなたの思うように支配し、家晴に彼の知行地を渡すようにすることが重要です。万が一政家の手にあまるようでしたら、幸いにも来年正月軍勢を遣わしますので、その時に仕置が申付けられることでしょうから、それを念頭に、軽挙妄動に出ることのないようにするように。

 

一、大村・波多・草野・有馬について、出陣した軍勢に別条ないと、たびたび報告してきているので、小西行長を遣わし、龍造寺の活躍同様に、万事心構えするよう申し遣わしました。けっして上意に背くことはないでしょう。

 

一、年内も残り少なくなってきましたので、いずれにしても明年正月秀長が軍勢10万ほど率いて派兵し、九州諸国の逆徒どもの理非曲直を糺し成敗すべく、国の掟を念入りに命じますので、お心得下さい。

 

一、政家およびそなたのこと、万事油断のないように心構えし、忠節に励むように。

 

 

充所の鍋島直茂は龍造寺政家の家臣であったが、政家が病弱なため国事を代行していた。その後旧龍造寺家家臣たちが鍋島家に忠誠を誓うなど、龍造寺家にかわり鍋島家が佐賀藩主となっていく*21。つまりこの時期の佐賀城主は形式的には龍造寺政家なのだが、実質的には鍋島直茂だったのである。

 

本文中で主題となっている、西郷信尚に知行地を奪われた伊佐早城主家晴と佐嘉城主政家の関係を理解するため、龍造寺氏、および鍋島氏の系図を掲げておこう。

 

Fig.1  龍造寺氏系図

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         「竜造寺氏系図」(『国史大辞典』)より作成

Fig.2 鍋島氏系図

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               「鍋島氏略系図」(『日本大百科全書』)より作成

 

さて本文書では、肥後の国人一揆鎮圧のため留守にしていた伊佐早(諫早)の地を、西郷信尚が奪還しようとした肥前一揆への対処を命じたものである。この時期の九州北部の情勢を簡単にまとめたものが下図である。

 

Fig.3  天正15年11月九州北部情勢概略図

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                 国土地理院地図より作成

 

肥後の隈部親永を首領とする国人一揆に続き、豊前で城井鎮房が、肥前では西郷信尚が豊臣政権に反旗を翻した。肥後国人一揆については本文書でも成政の失政が原因であるかのようにしたためている。伝聞調の「由」という表現ながらも、諸大名への文書に必ず記しているところから、豊臣政権自体の落度ではない旨を暗に強調しているのではないだろうか。

それはともかく、ここでは龍造寺家晴に与えた知行地をもともとの領主であった西郷信尚が新領主家晴の留守を狙って奪還しようとしたことは、明らかに豊臣政権における「私戦」であり、また秀吉が独占的にもつ知行充行権の侵害であって秀吉にとって見過すことのできない大事件であった。

 

*1:ヒトツガキ。本文書同様「一、○○」のように箇条書で書かれた文書

*2:鐙や肩にかけて担うようなものを数える単位

*3:佐々成政

*4:テダテ。軍事行動

*5:龍造寺家晴

*6:信尚

*7:知恵が深いこと

*8:「曲者」には①不審な者、害を及す者のほかに②妙手、優れた腕前の者、一癖あって油断ならぬ者の意味がある。ここでは後者

*9:政家

*10:軽率な軍事行動

*11:喜前=ヨシアキ。純忠の息、肥前大村城主

*12:波多信時/波多親。肥前唐沢城を本拠とする松浦党の武将

*13:鎮永。筑後発心城主

*14:有馬晴信。肥前日野江城主

*15:行長

*16:秀吉の意思

*17:豊臣秀長

*18:ジョサイ。「如在/如才なく」で油断なくの意。現在でも抜目のない、外面だけがいい者に対して「あいつは如在ないヤツ」などという

*19:天正15年

*20:直茂

*21:念のため申し添えると「○○藩」という呼称は明治初期の文書にしか見られないもので、同時代には見られない歴史的概念である。よく時代劇で「××藩の」というセリフを聞くがちょっとどうかと思う