日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年9月7日安国寺恵瓊宛豊臣秀吉朱印状

 
 
    猶以陸奥守*1かたへ之朱印*2、早〻可被相届候也
 
去月十八日之書状披見*3候、肥後表之儀陸奥守国衆又ハ百姓已下へ之申付様*4悪候哉、一揆*5少〻相催、猥成之由被*6申越候、不相構註進*7等、肥後境目之在ル人数を催、陸奥守所へ加勢可然候、隆景者筑後内くるめの城*8迄尤候、先を被聞届可被随其旨申遣候、左様候て黒田勘解由*9・森壱岐守*10両人之者も留守を丈夫ニ置之、隆景次第ニ可相動之由申遣候、定雖不可有由段候、為心得候間早速被出人数可然候、隆景へ可申遣候、龍造寺*11かたへも同事候也、
   九月七日*12(朱印)
      安国寺*13
 
(三、2289号)
 
(書き下し文)
 
去る月十八日の書状披見候、肥後表の儀陸奥守国衆または百姓已下への申し付けよう悪しく候や、一揆少〻相催し、みだりなるの由申し越され候、註進などに相構わず、肥後境目のある人数を催し、陸奥守所へ加勢しかるべく候、隆景は筑後内久留米の城までもっともに候、先を聞き届けられその旨に随わらるべく申し遣し候、さよう候て黒田勘解由・森壱岐守両人の者も留守を丈夫にこれを置き、隆景次第に相動くべきの由申し遣し候、さだめて由段あるべからず候といえども、心得ために候あいだ早速人数を出され然るべく候、隆景へ申し遣すべく候、龍造寺方へも同事に候なり、
 
なおもって陸奥守方ヘの朱印、早〻相届けらるべく候なり
 
(大意)
 
先月十八日付の書状拝読しました。肥後の件は成政が国衆や百姓たちへの支配が悪かったためだろうか、一揆などを結び、不穏な様子になっているとそなたからご報告がありました。報告の有無にかかわらず肥後国境にいる軍勢を引き連れ、成政の陣へ加勢したことは適切です。隆景は筑後久留米城に入ったとのことこちらももっともなことです。先々の様子を聞きその状況に応じて行動するよう申し遣わします。そういうわけですから、孝高・吉成両名も居城に留守を置き、隆景の下知次第攻撃するよう伝えました。決して油断せぬよう心得てください。早々に出兵されたこともっともなことです。隆景へも申し伝えます。政家へも同様です。
 
なお成政への朱印状早々に届けてください。
 
 

 

 一揆契状で代表的なものといえば毛利氏のものであろう。円形に署名することで上座下座を不可視化し垂直的序列を排して特別な関係を結ぶ。エンドロールの役者の配列やリモート会議の配置など上座下座をめぐる争いは古今東西絶えないものである。毛利元就の長男が隆元、次男が吉川元春、三男が小早川隆景で父子三兄弟の序列はこの署名からは読み取れない。

 

Fig.1 毛利元就ほか11名一揆契状署名欄

 

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                『大日本古文書 毛利家文書之一』226号

  恵瓊に対し「申し越され」、「聞き届けられ」など尊敬の助動詞「被」(らる)が使われていて全体的に丁重な文体であり、秀吉と恵瓊の関係を見るとき重要な点である。

 

小早川隆景は居城である筑前国糟屋郡名島城から、肥後に出陣した猶子秀包の居城筑後国御井郡久留米城へ入った。豊前国企救郡小倉城主毛利吉成や同仲津郡中津城の黒田孝高も肥後国境まで進軍した。

 

Fig.2 豊前・筑前・筑後・肥前・肥後周辺図

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

下線部によると、成政の国衆や百姓への対応が不適切だったことが一揆の原因であると恵瓊は秀吉に報告したようだ。孝高宛の同日朱印状には「一揆そのほか不届なる国侍これあるにおいては、きっと成敗すべきの由陸奥守へも仰せ遣わされ」*14と恵瓊に託した朱印状の内容がうかがえる。「国侍」と呼ばれる土豪の存在を秀吉は認めていたが、ここにきて反旗を翻すような「不穏分子」は殲滅せよと命じたわけである。ちなみに徳川幕府は天草島原一揆までは「一揆」と表現していたが、その後一揆という呼称を避け「徒党」などに変えている*15

 

さらに山門郡柳川城主立花宗茂にも同内容の朱印状を同日発している*16。     

*1:佐々成政

*2:成政宛の朱印、未発見

*3:隆景が恵瓊を肥後に派遣して報告した秀吉への書状

*4:同日付隆景宛判物では「あたり様」=接し方と見える。2291号

*5:一味同心という連帯の心性を共有する人々で構成された集団のこと。日本の中世は一揆の社会といわれ、たとえば弘治3年12月2日毛利氏の一揆契状に見られるように構成員は全員平等の原則が貫かれている。図1参照

*6:恵瓊への尊敬語、以下同様

*7:上申すること、同日付孝高宛は「隆景へも」とあるので「隆景に報告せず」の意。2290号

*8:筑後国御井郡久留米城、図2参照。毛利元就の末子で隆景の猶子秀包の居城

*9:孝高

*10:毛利吉成

*11:政家

*12:天正15年

*13:恵瓊

*14:2290号

*15:こうした言い換えは歴史上しばしば行われる。ある用語がいつごろから、どのような意味合いで用いられるようになったかを明らかにすることは歴史学の基本的作業である。たとえばある政治的転機を「革命」と呼ぶか「クーデター(反乱)」と呼ぶかは立場によって、また歴史学上の解釈によって異なってくる。「本能寺の変」に革命的要素を見出すことができれば「本能寺革命」と呼ぶことも可能である。もともと「revolution」は「回転、天体の公転、季節が一巡りする周期」を意味し、漢語の「革命」とは別の概念だった。「coup d'Etat」は「既成の秩序への反抗」、テロルは恐怖の意で、スターリンによる粛清は「Большой террор」(バリショーイ・テロル)で大弾圧・大恐怖政治の意

*16:2292号