去月廿七日之書状、今日十三於京都加披見候、肥後面之儀、入精切〻註進、遠路之処悦思召候、殊遣検使、小早川藤四郎*1・龍造寺*2、其外肥前・筑後之人数相立之由尤候、隆景*3者くるめ*4城ニ有之而、先手之者一左右次第、無緩可相動候、先書*5如被仰遣候、①陸奥守*6天下背御下知*7、国侍共ニ御朱印之面*8知行をも不相渡付而、堪忍不成之故*9、構別心儀候、領知方糺明之儀も、先成次第ニ申付*10、至来年致検地、いかにも百姓をなてつけ*11、下〻有付*12候様ニと度〻被加(闕字)御意候処、さも無之、法度以下猥成故、一揆蜂起候、彼是以無是非次第候、②縦被仰付之旨申付、其上にて不慮出来候共、越度ニハ成間敷候処、条〻背御下知付而如此候、人之上にてハ在之間敷候条、能〻令得心*13、守御法度旨、万事申付可然候、③肥後之儀者取分*14何之御国〻よりも被入御精*15、静謐ニ被仰付候処*16、無幾程及錯乱、助勢を乞候事沙汰之限候、肥後国侍共、今度対陸奥守別心之儀、相尋可言上之由、先書*17被仰出候間、弥申聞、申分於有之者重而可申越候也、
九月十三日*18(朱印)
黒田勘解由とのへ*19
森壱岐守とのへ*20
(三、2303号)
(書き下し文)
去る月二十七日の書状、今日十三京都において披見を加え候、肥後おもての儀、精を入れ切〻註進、遠路のところ悦しく思し召し候、ことに検使を遣わし、小早川藤四郎・龍造寺、そのほか肥前・筑後の人数相立つるの由もっともに候、隆景は久留米城にこれありて、先手の者一左右次第、緩みなく相動くべく候、先書仰せ遣わされ候ごとく、①陸奥守天下の御下知に背き、国侍ともに御朱印の面知行をも相渡さざるについて、堪忍ならざるのゆえ、別心を構うる儀に候、領知方糺明の儀も、先成次第に申し付け、来年に至り検地いたし、いかにも百姓を撫で付け、下〻有り付き候ようにと度〻御意を加えられ候ところ、さもこれなく、法度以下猥りなるゆえ、一揆蜂起し候、かれこれもって是非なき次第に候、②たとい仰せ付けらるるの旨申し付け、その上にて不慮出来候とも、越度にはなるまじく候ところ、条〻御下知に背くについてかくのごとくに候、人の上にてはこれあるまじく候条、よくよく得心せしめ、御法度の旨を守り、万事申し付けしかるべく候、③肥後の儀は取り分け何の御国〻よりも御精を入れられ、静謐に仰せ付けられ候ところ、幾程なく錯乱に及び、助勢を乞い候こと沙汰の限りに候、肥後国侍ども、このたび陸奥守に対し別心の儀、相尋ね言上すべきの由、先書仰せ出だされ候あいだ、いよいよ申し聞かせ、申分これあるにおいてはかさねて申し越すべく候なり、
(大意)
8月27日付の書状、今日13日京都において拝読しました。肥後の件、遠路にもかかわらず逐一報告し、うれしく思います。特に検使を遣わし、小早川秀包・龍造寺政家、そのほか肥前・筑後の軍勢を出発させたとのこともっともなことです。隆景は久留米城に在陣しており、下知あり次第、油断なく攻撃するように。7日付朱印状にて伝えたとおり、①成政がこの秀吉様の命令に背いて、朱印状の文面にある知行地を国侍たちに渡さなかったのが耐え切れず、彼らは翻意したのです。領地についてよくただすことを最優先し、来年を待って検地に取りかかり、なんとしてでも百姓を憐れみ、下〻の生活が成り立つようにせよと、幾度となく命じていました。にもかかわらず、そうすることもなく、秩序が乱れたので、一揆を結んだ者たちが武装蜂起したのです。そうこうするうちにっちもさっちもいかない状態になってしまいました。②命ぜられたとおり統治し、その上でたとえ不慮の出来事が起きても、不手際にはならなかったのに、逐一下知に背くのでこのような状況に陥ったのです。人の上に立つ者のすることではありません。よく説得し、御法度の趣旨を守り、万事怠りなく統治できるように。③肥後は特に他国よりも入念に、落ち着くよう命じているのに、程なく混乱を招き、助力を乞うなどもってのほかの不始末です。肥後の国侍たちに、このたび陸奥守に対し背いた事情を尋ね報告するように、8日付の書面で伝えたとおりです。一層この点を国侍たちに聞かせ、言い分があるのならかさねて報告するようにしてください。
本文書は肥後国人一揆が起きた原因を秀吉なりに「分析」したものである。①では「天下の御下知」と秀吉の命令が公的立場からのものであること、成政が秀吉による本領安堵の朱印状を握りつぶした=上前をはねた・ピンハネしたことで武装蜂起にいたったと述べる。「太閤記」にも「領知の目録を知らざるは、受領せし甲斐もなし」(領知目録の存在を知らないのなら、受け取る価値もないだろう)と成政が考えたと記されている*21。この成政が上前をはねたことについては、本文書と「太閤記」の、すなわち秀吉側の言い分しかわからないので判断は保留しておく。秀吉が国人たちに発給した領知充行状を一覧にしたのが下表である。
Table. 天正15年5月30日肥後国人宛秀吉発給領知充行状
また以下のように、秀吉からの本領安堵に加え、成政らが独自に新恩給与として土地を与えている文書も残されている。
(参考史料1)
御知行方目録
一、六拾九町三反 田畠出来分共 上宇部
一、参拾四町三反 田畠出来分共 内名村
一、四拾六町四反 田畠出来分共 万田村
合百五十町者
右之内五拾町者、(闕字)御朱印之知百町者為新知、被仰付候、追而糺明之処可為惣領*22候、仍如件、
佐〻与左衛門尉
天正十五年八月廿六日 重備花押
小代下総守殿*23
参
(書き下し文)
(下線部のみ)
右のうち五十町は御朱印の知、百町は新知として仰せ付けられ候、おって糺明のところ惣領たるべく候、よってくだんのごとし、
(大意)
右150町のうち50町は秀吉様より、百町は新恩給与として与えるものである。近日中に吟味するので知行しなさい。
(参考史料2)
加増知行目録
田方
一、五拾三町三段三丈 玉名郡 井手村
畠方
一、六町五反二丈 同所
田畠共
一、拾町壱段者 玉名郡 下長田村之内
都合七拾町者
右追而糺明可為如惣領者也、
天正十五年十月日 成政 花押
小代下総守殿
(書き下し文)
右おって糺明し、惣領のごとくたるべきものなり、
(大意)
右の田畠については近日中に吟味し、すべて領有するものとする。
Fig. 参考史料に見える小代氏知行地
検地を翌年に繰り延べし、百姓に対して慈悲深く接して生活が成り立つよう努めよと度々忠告していたとも記し、成政の不手際が招いたことだと断じているわけである。「撫で付け」という上位者が下位者を憐れむ文言が記されている点は興味深い。
②は秀吉の命ずるまま統治していれば、万一不慮の出来事が起きても成政の不始末にはならなかったのにと述べている。仮定の話なので、実際に命じられたとおり行って何か起きれば不手際とされる可能性は否定できないが、命に背いたことが致命的だったというのである。
③は肥後の国分を他国より入念に行ったのに、成政のおかげで台無しにされたとする。
以上はあくまで秀吉による「分析」であって、成政に責めを負わせるプロパガンダ的要素もあったであろう。社会的に、あるいは刑事的・民事的に制裁を加えることをもって原因究明とすること、すなわち追及(ツイキュウ)をもって追究(ツイキュウ)とすることは珍しくないからである。
なお文末にあるように、言い分があるのなら聞こうという「紛争の調停者」という姿勢も見せている点は重要であろう。