日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年3月17日大円坊宛羽柴秀吉書状

 

 

(包紙ウハ書)

「 大円坊*1                       秀吉  」

 

去正月廿一日之書状令披見候、仍佐竹*2・佐修*3・天徳寺*4・宇都宮*5書状、何も及返札*6候、能〻可被相届*7候、随当表*8之儀、無残所属存分候、将又其表事、去秋以来*9義重*10・氏直*11雖対陣候、依為節所*12互被納馬*13之処、氏直以計策新田*14・館林*15両地請取、于今居陣之由候、依之義重近日可為出馬之由候、無越度候様、各相談肝要候、然者氏直事も家康*16同意之儀候之間、我々令助言無事*17可執噯*18、自然於許容*19者、出人数可随其候、尚期来信候、謹言、

   三月十七日*20                               秀吉(花押)

     大円坊

 

『秀吉文書集二』1354号、145頁

(書き下し文)

 

去る正月廿一日の書状披見せしめ候、よって佐竹・佐修・天徳寺・宇都宮の書状、いずれも返札におよび候、よくよく相届けらるべく候、したがって当表の儀、残るところなく存分に属し候、はたまたその表のこと、去る秋以来義重・氏直対陣候といえども、節所たるにより互いに納馬せらるるのところ、氏直計策をもって新田・館林両地請け取り、今に居陣のよしに候、これにより義重近日出馬たるべくのよしに候、越度なく候よう、おのおの相談じ肝要に候、しからば氏直のことも家康同意の儀に候のあいだ、我々助言せしめ無事に執り噯うべく候、自然許容においては、人数を出だしそれに随わすべく候、なお来信を期し候、謹言、

 

(大意)

 

去る正月21日付の書状拝読しました。佐竹義重・佐野昌綱・天徳寺宝衍・宇都宮国綱からの書状、いずれも返書をしたためました。うまくいくことでしょう。こちらは残るところなく平定しました。またそちらは昨年の秋から佐竹義重と北条氏直が対陣していましたが、膠着状態が続いたので兵馬を引いたところ、氏直が計略によって新田・館林を手に入れ、現在まで陣を構えているとのこと。これに対抗すべく義重が近日中に出馬するとのこと。間違いのないようによくよく相談してください。そうすれば氏直のことも家康が同意しているので、われわれが「助言」し和平の仲裁をします。万一陣を引かないのならば、軍勢を出ししたがわせるようにします。ではまた。謹んで申し上げました。

 

 

 

 Fig. 上野国・下野国関係図 

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                   『日本歴史地名大系』群馬県より作成

小牧長久手で対陣している秀吉と家康が、それぞれ同盟を結んでいる佐竹氏らと北条氏が対立していることの和議について述べたものである。

 

下線部で示したように佐竹氏らと北条氏の和平を、家康との同意の下秀吉の「助言」により仲裁するという手順を踏んでいる。もちろん直後に軍事力を背景にした武力行使も厭わないと仄めかしてはいるが。

*1:未詳、秀吉家臣でのち井伊家に仕えた溝江彦三郎カ

*2:義重、常陸国久慈郡太田城主

*3:佐野修理進宗綱、下野国安蘇郡唐沢山城主

*4:宝衍、佐野宗綱または昌綱の弟

*5:国綱、下野国河内郡宇都宮城主

*6:返信

*7:目的を達する

*8:小牧長久手合戦の状況

*9:天正12年7月、秋は7~9月

*10:佐竹

*11:北条

*12:峠などの交通の難所、要害。ここでは陣地に立て籠もってにらみ合っている状態

*13:兵馬を引くこと、戦いをやめること

*14:上野国

*15:同上

*16:徳川

*17:和平

*18:トリアツカウ、仲裁する

*19:新田・館林の陣を堅く守ること

*20:天正13年