日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年12月28日徳川家康宛豊臣秀吉書状写

 

 

芳札*1披見候、誠今度者早〻依帰国、残多覚候*2、仍関東堺目無異義旨尤候、今少之間ニ候、弥無油断可被入精候、就其北条懇望之由*3、如書中何共申候へ、京都ハ御赦免之上不沙汰、不及言舌儀候、自然号御侘言書状等持参者候者、可被為生涯*4候、随御出馬相延候程可然旨、異見無余義候、然者三月朔日を二月一日ニ可被成候哉、急候て可然との事候者、正月一日も可有御動座候、其外御延引者一切不可成候、惣別*5於駿遠御越年程ニ雖被思召候、諸卒*6用意如何、三月朔日之御出馬ニ被相究候、次兵粮米調之儀、成次第*7可有馳走*8候、自此方過分ニ被為悉*9候条、被闕*10御事*11候事、不可在之候間、可御心安候、猶浅野弾正少弼*12可申候、穴賢、

 

   極月廿八日*13  秀吉(花押影)

 

     駿河大納言□□□*14

 

(四、2872号)

 

 

(書き下し文)

 

芳札披見候、誠にこのたびは早〻帰国により、残り多く覚え候、よって関東堺目異義なき旨もっともに候、今すこしのあいだに候、いよいよ油断なく精を入れらるるべく候、それについて北条懇望の由、書中のごとくなんとも申しそうらえ、京都は御赦免の上不沙汰、言舌に及ばざる儀に候、自然御侘言と号し書状など持参者そうらわば、生涯せらるべく候、したがって御出馬相延ばし候ほど然るべき旨、異見余義なく候、しからば三月朔日を二月一日になさるべく候か、急ぎ候て然るべしとの事にそうらわば、正月一日も御動座あるべく候、そのほか御延引は一切成るべからず候、惣別駿遠において御越年ほどに思し召され候といえども、諸卒用意如何と、三月朔日の御出馬に相究わめられ候、次いで兵粮米調えの儀、なり次第馳走あるべく候、この方より過分に悉くさせられ候条、御事闕けられ候こと、これあるべからず候あいだ、御心安んずべく候、なお浅野弾正少弼申すべく候、あなかしこ、

 

 

(大意)

 

お手紙拝見しました。このたびは早々の帰国実に名残惜しいことに思います。さて、関東堺目(北条攻め)について異議なしとの趣旨もっともなことです。今しばらく油断なく準備を進めてください。その件について北条が庶幾っているとのこと、書状にあるように何を言っても、上洛はご勘弁くださいとの不沙汰は筆舌に尽くしがたいことです。もし万一「侘言」と称し使者を送ってくるようなら切り捨てるつもりです。したがって出馬を延引するほど然るべき理由などありません。三月一日を二月一日にすべきか、急ぐべしとのことならば元日にも出馬するつもりです。それ以外一切日延べはしません。だいたい駿河か遠江で越年すべきかとも考えていましたが兵卒の準備具合から三月一日の出陣に決めました。次に兵粮の準備の件ですが、なるがままに奔走してください。こちらより多めに出し切りますので、あなたさまに不足させるようなことはしません。どうかご安心ください。なお浅野長吉が申します。あなかしこ、

 

 

 

朱印ではなく花押を据えていることや「御事」という表現が見られること、書止文言の「穴賢」など他の尊大な秀吉発給文書にくらべると、家康に対しては厚礼であることが読み取れるが、それでも「御動座」、「御出馬」といった秀吉に対する敬意表現を忘れてはいない。

 

12月9日北条氏直は家康にあてて先月24日付の「最後通牒」に対し「名胡桃城は当方より乗っ取らず候」として次のように述べ、家康から秀吉への取りなしを要請した。

 

 

 (前略)

 

一、上洛遅延の由、御状披露*15候、無曲*16に存じ候、当月の儀正二月にも相移りそうらわばもっともに候か、惑説により妙音・一鴎*17相招き、胸中晴るべき由存じ候処*18、去月廿四日のお腹立ちの御書付、誠に驚き入り候、ご勘弁*19あるべきこと

右の趣きお取り成し仰ぐところに候、恐〻謹言、

 

 (後略)

(『神奈川県史 資料編3』1215頁、9522号文書)

 

 

 

北条氏政、氏規も同日家康へ取り成しを依頼している*20

 

「最後通牒」については以前読んだ。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

その一方で秀吉軍を迎え撃つ準備を着々と進め、氏政は「天下の大途に至らば(天下の一大事となれば=北条氏の帰趨如何によっては)と記した著到状を発している*21。この文言は北条氏領国をひとつの「天下」と見做していたことを示している。いわば複数の天下が併存していた可能性もあったのだ。したがって信長や秀吉の「天下統一」だけがありえた唯一の歴史であったわけではない

 

12月10日家康は上洛し、氏直らからの書状を秀吉に手渡した際に北条攻めに同意したと諸記録は伝える。本文書はその合意が前提とされている。

 

 

*1:12月22日駿府城に無事着いたことを知らせる書状か

*2:名残惜しく思います

*3:後述12月9日付書状

*4:生害と同じ

*5:概ね

*6:兵卒

*7:なるがままに

*8:奔走すること、世話をすること

*9:つくす

*10:欠ける、不足する

*11:相手に対する敬称、つまり家康のこと

*12:長吉

*13:天正17年。グレゴリオ暦1590年2月2日。ユリウス暦同年1月23日

*14:徳川家康

*15:書面をもって上申した

*16:謂れのないこと

*17:秀吉の使者

*18:心の内を打ち明けるつもりでいたところに

*19:物事を上手く処理すること

*20:9522号文書

*21:9527号