日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)1

 

天正17年11月24日、秀吉はついに北条氏直へ最後通牒を発した。しかも当人のみならず諸大名へも「北条左京大夫とのへ」との充所と朱印を捺した正本を送りつけている。原則として古文書は受け取った者の家に残されるものであるが、正本が各大名家に残されるというのはきわめて珍しい。また天正5年に正三位権大納言となるも同13年に勅勘を蒙り、京都を去って堺に逼塞していた山科言継の日記「言継日記」12月16日条にも「殿下(秀吉)より北条に対して条々仰せのわけ、かくのごとし、去る月廿四日なりと云〻」と伝聞の形で全文が書き写されている。3週間後であるが、長文にもかかわらず本文はもちろん様式まで正確に書き写されていて、写もしくは原本を見て書き写したことは間違いない。かなり広範囲に出回っており、偶然流出したのではなく、秀吉が意図的に広めたとみるべきだろう。つまり、これは北条氏直への最後通牒であると同時に自らを「公儀」と位置づける政治的な檄文でもある。

 

全文は五ヶ条からなる、かなりの長文であるため分割することにした。今回はこれまで入れてきた「(闕字)」の注釈を入れず、原文通り一字分空白のママとした。

 

 

     条〻

 

一、北条*1事、近年蔑 公儀*2不能上洛、殊於関東任雅意*3狼藉条不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿*4依為縁者種〻懇望候間、以条数*5被仰出候へハ、御請申付被成御赦免、則美濃守*6罷上御礼申上候事、

 

一、先年家康被相定条数*7、家康表裏之様申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付之間、家〻郎従*8差越候へと被仰出候処ニ、江雪*9差上畢、家康北条国切*10之約諾*11儀如何と御尋候処、其意趣者甲斐・信濃之中城〻ハ家康手柄*12次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国ハ則家康被申付候、上野沼田*13儀者北条不及自力*14、却家康相違之様二申成、寄事於左右*15、北条出仕迷惑*16之旨申上候歟と被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中二在之城をハ真田可相拘之由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地*17者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条可出仕との一札出候者、則被差遣御上使*18、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下*19候事、

(次回へ続く)

(四、2768号)
 

(書き下し文)

 

     条〻

 

一、北条のこと、近年公儀を蔑み上洛あたわず、ことに関東において雅意に任せ狼藉の条是非におよばず、しかるあいだ去年御誅罰を加らるべきところに、駿河大納言家康卿縁者たるにより種〻懇望し候あいだ、条数をもって仰せ出だされそうらえば、御請申し付けてご赦免なされ、すなわち美濃守罷り上り御礼申し上げ候こと、

 

一、先年家康相定めらるる条数、家康表裏のように申し上げ候あいだ、美濃守ご対面なさるる上は、境目などの儀聞し召し届けられ、ありように仰せ付けらるるべきのあいだ、家〻郎従差し越しそうらえと仰せ出され候ところに、江雪差し上げおわんぬ、家康と北条国切の約諾の儀いかがとお尋ね候ところ、その意趣は甲斐・信濃のうちの城〻は家康手柄次第に申し付けらるべく、上野のうちは北条申し付けらるべきの由相定め、甲信両国はすなわち家康申し付けられ候、上野沼田の儀は北条自力に及ばず、かえって家康相違のように申しなし、事を左右に寄せ、北条出仕迷惑の旨申し上げ候かと思し食され、その儀においては沼田下さるべく候、さりながら上野のうち、真田持ち来たり候知行三分二沼田城に相付け、北条に下さるべく候、三分一は真田に仰せ付けられ候条、そのうちにこれある城をば真田相拘うべきの由仰せ定められ、右の北条に下され候三分二の替地は、家康より真田に相渡すべき旨お究めなされ、北条出仕すべしとの一札出だしそうらえば、すなわちご上使を差し遣され、沼田相渡さるべしと仰せ出され、江雪返り下られ候こと、

 

(大意)

 

一、北条は、最近公儀を軽んじて上洛せず、特に関東においては恣意的に支配しており無秩序の状態であること夥しい。したがって昨年処罰しようと考えていたが、徳川家康卿の縁者ということでいろいろ願い出たので、条書を下して下知したところ、家康が請け負うことでお許しになったので、すみやかに北条氏規が上洛して御礼申し上げたこと。

 

一、先年家康が定めた条書について、家康が表裏者のようにそなたは申しており、氏規と対面される以上、国郡境目などの件をお聞き届けになり、あるがままにするよう命じるべきなので、家中の家臣などを差し向けるように仰せられたが、重臣の板部岡江雪を派遣してきた。江雪に家康と北条との国境設定合意の進捗状況はどのようになっているのかと尋ねたところ、江雪が言うには甲斐・信濃の各城は家康が攻め取り次第のものとし、上野は北条の支配下とすべきと定め、すなわち甲信両国は家康の支配下とされていますと回答した。上野沼田城については北条の独力では維持できず、かえって家康が虚偽の申し出をしているように申し、あれこれと理由を付けて、北条が上洛できないと申すのかと殿下がお思いになり、沼田城については北条に下さるように、上野のうち、真田がこれまで知行してきた三分の二の領地も沼田城に附属させて、北条に与える。三分の一は真田の知行とするので、真田の知行となる領地内にある城は真田が支配すべきと定め、今申した北条に与える三分の二の替地は、家康から真田に渡すように決め、その上で北条が必ず上洛すると書面で申し出れば、すぐさまこちらから使者を派遣し、沼田城を与える旨仰せられ、無事江雪も関東へ帰国できただろうこと。

 

 

冗長で重複した部分もあり、意味を正確に取りにくい部分も多いがおおむね以上のような趣旨であろう。

 

『邦訳日葡辞書』は「公私」を「主君と私」の意味とする。これは「公」は「私」の上意にある者を意味していたからである。本来「私的な」関係である主従関係を日本語で「公私」と表現するのは、「おほやけ」がもともと「大宅」(おおやけ=大きな宅)を意味していたことと無縁ではない。「大宅」の対義語は「小宅」(こやけ)である。「公儀」という言葉もそうした歴史的事情を抜きにして語ることは出来ない。ちなみに信長は自身を「天下」と位置づけ、将軍足利義昭を「公儀」とし、「天下」を「公儀」の上位に位置づけた。

 

下線部①の、小田原北条氏が「公儀を蔑ろにし」ているというのは秀吉に臣従しないことであって、すなわち「私的な」主従関係に入るか否かを問題にしているのである。北条氏側が特段「公的に」問題を起こしているわけではない。中世末期の戦国大名等はそれぞれを「公儀」とか「国家」などと自称し始める。これは「外交権」が「日本国王」であった室町将軍家から大内氏や大友氏、島津氏などの各大名へ分割委譲され始めたことと軌を一にしている。中世末期が日本史上もっとも分権的な社会だったといわれる所以であるが、信長や秀吉はそうした諸権力を集権的に再編成する「天下統一」事業に乗り出した。今日の日本社会の単一的で中央集権的な構造の起点をこの時期に求めることも可能である。ただし、秀吉は「日本」の領域の「東端」*20を「津軽・合浦・外ヶ浜」であると何度も繰り返している。だからこそ奥羽地方を制圧したあとの関心が大陸へ向かったわけである。また琉球王国も幕末期まで「外国」と認識されていた。こうした当時の「領域的認識」も押さえておきたい。

 

Fig.1 中世日本の領域感覚

                                                                                                     Google Mapより作成

 

下線部②は北条氏の使者である板部岡江雪とのやりとりである。「家康と北条の国切の約諾」が如何なる状況下を尋ね、裁定者である秀吉自身がその可否を判断するわけである。ここに秀吉が「公儀」を自称する根拠がある。

Fig.2 上野国沼田城周辺図

                                                                                   Google Mapより作成

 

*1:氏直

*2:豊臣政権のこと。「公儀」の一般的な意味は『邦訳日葡辞書』に「宮廷、または宮廷における礼法上の事柄や用務」とある。『日本国語大辞典』は「日葡辞書」のこの項を引用して「礼法上の」を「政治的な」とするが、前訳書は原文の「politicos」は「道」などと同様の「policia」(儀礼)に関することだろうとしている。後述

*3:我意とも。「雅意に任せる」で「自分の考えや意思のままに行動する、処理する」の意。現在各地に「がいに」=「大変に、強い、素晴らしい、手荒な」という言い方が残っているが、当時は「がいな者」を「主君や父母に礼儀正しくない、自分勝手な者」の意味だった

*4:徳川家康。摂政、関白、大臣を「公」、大中納言、参議、または三位以上の貴族を「卿」といい、あわせて「公卿」と呼んだ。水戸光圀は中納言なので「水戸光圀公」と呼ぶのは誤り

*5:同日付徳川家康宛朱印状。天正17年11月24日徳川家康宛豊臣秀吉朱印状写 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

*6:北条氏規。相模国三崎城城主、伊豆国韮山城城将、上野国館林城城将

*7:未詳、徳川林制史研究所編『徳川家康文書総目録』では見つけられなかった

*8:北条氏の家臣の各家々の家臣。要するに軽輩

*9:板部岡江雪斎/嗣成。北条氏の評定衆・右筆を務め、北条氏滅亡後は秀吉の御伽衆となり名字を岡野に改め、秀吉死後の上杉景勝攻めでは家康に属した

*10:国分、つまり国々を分割し区分すること。国境相論の裁定結果

*11:豊臣惣無事論を提唱した藤木久志氏はこの「国切の約諾」を大名間の領土協定として重要視している

*12:武功、軍功

*13:利根郡沼田城

*14:「自力救済」の「自力」は法に則った手続きや公権力によらず自らが実力行使に及ぶ行為を指す学術概念だが、ここでは単に「独力で」の意。秀吉の「惣無事」とは自力救済原理の否定であるだけに蛇足ながら注意を喚起した

*15:「左右」は「そう」と読み、「あれこれ」の意。「事を左右に寄せ」で「あれやこれや文句を言って」

*16:「迷惑」は今日的には相手に対して「迷惑をかける」意味で使われることが多いが、当時は自分たちが「困惑する」、「どうしてよいか途方に暮れる」といった意味で使われることが多いので注意を要する

*17:「替地」は秀吉が武士の在地性を否定し、「鉢植え」化を計るこれまた重要な政策基調である

*18:くどいくらいの敬意表現を用いているので秀吉から派遣された使者

*19:「返り下る/帰り下る」で都から地方へ帰国するの意

*20:「北端」は当時佐渡島とされていた