日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)2/止

 

                 (承前)

 

一、当年極月上旬、氏政*1可致出仕旨御請一札*2進上候、因茲被差遣津田隼人正*3・冨田左近将監*4、沼田*5被渡下候事、

 

一、沼田要害請取候上ハ、右之一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田*6相拘候なくるみの城*7を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事、

 

一、秀吉若輩之時、孤*8と成て信長公属幕下*9、身を山野ニ捨、骨を海岸に砕、干戈*10を枕として夜ハ*11に寝、夙に*12おきて軍忠をつくし戦功をはけます*13、然而中比*14より蒙君恩、人に名を知らる、依之西国征伐*15之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽*16、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家*17を乱し叛逆之条、是又退治畢、此外諸国叛者*18討之、降者近之、無不属麾下者就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命者哉、予既挙登龍鷹揚之誉,成塩梅*19則闕*20之臣、関*21万機政*22、然処ニ氏直背天道之正理、対  帝都*23奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴*24不如拙誠*25、所詮普天下*26逆   勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄*27令進発、可刎氏直首事、不可廻踵*28者也、

 

     天正十七年十一月廿四日*29 (朱印)

 

                                 北条左京大夫とのへ*30

 

 

(書き下し文)

 

                  (承前)

 

一、当年極月上旬、氏政出仕致すべき旨の御請一札進上候、これにより津田隼人正・冨田左近将監差し遣わされ、沼田渡し下され候こと、

 

一、沼田要害請け取り候上は、右の一札に相任せ、すなわち罷り上るべきと思し召され候ところ、真田相拘え候名胡桃の城を取り、表裏仕り候上は、使者にご対面の儀なさるべきにあらず候、彼の使い生害に及べしといえども、命を助け返し遣わし候こと、

 

一、秀吉若輩の時、みなしごとなりて信長公幕下に属し、身を山野に捨て、骨を海岸に砕き、干戈を枕として夜半に寝、つとに起きて軍忠を尽くし、戦功を励ます、しかりて中ごろより君恩を蒙り、人に名を知らる、これにより西国征伐の儀仰せ付けられ、大敵に対し雌雄を争うきざみ、明智日向守光秀無道のゆえをもって、信長公を討ち奉り、この注進を聞き届け、いよいよ彼の表へ押し詰め存分に任せ、時日を移さず上洛せしめ、逆徒光秀の頸を伐り、恩恵に報い会稽を雪ぐ、その後柴田修理亮勝家、信長公の厚恩を忘れ、国家を乱し叛逆の条、これまた退治しおわんぬ、このほか諸国の叛者これを討ち、降者はこれを近づけ、麾下に属せざる者なし、なかんづく秀吉一言の表裏これあるべからず、このゆえをもって天命に相叶う者かな、予すでに登龍鷹揚の誉れを挙げ,塩梅則闕の臣となり、万機政を関る、しかるところに氏直天道の正理に背き、帝都に対し奸謀を企つ、なんぞ天罰を蒙らざるかな、古諺に云わく、巧詐は拙誠に如かず、所詮普天下の勅命に逆らう輩、早く誅伐を加えざるべからず、来歳必ず節旄を携えて進発せしめ、氏直の首を刎ねるべきこと、踵を巡らすべからざるものなり、

 

(大意)

 

                         (承前)

 

一、本年12月上旬に氏政が上洛すべきと請け負った書面が差し出されたので、津田信勝・冨田一白を派遣し、沼田城を北条氏に与えたこと。

 

一、沼田城を請け取った以上、右の書面通りすぐさま上洛すると秀吉様がお考えになっていたところ、真田昌幸が抱えている名胡桃城を攻め取るなど協定を破ったわけなので、北条の使者に謁見することなどもはやできない。使者は処刑すべきところだったが、助命し小田原へ帰らせたこと。

 

一、秀吉がまだ若輩者だったとき、孤児となって信長公の臣下となり、身を山野に捨て、骨を海岸に砕いて、干戈を枕として夜遅くに寝、早朝に起きて軍忠を尽くし、戦功を励ましていた。その後君恩を蒙り、人に名を知られるようになったので毛利攻めを命じられ、「ゴリアテ」と雌雄を争っていたさなかに、明智光秀は無道であるため信長公を弑逆し、この報せを受け、短時日に上洛し、逆徒光秀の頸を伐りとったのである。信長公の御恩に報いまた汚名を雪ぐこともできた。その後柴田勝家は信長公の恩を忘れて、宸襟を悩ませ叛逆したので、これもまた滅ぼした。このほかの諸国の「反逆者」は攻め滅ぼし、降伏した者は臣下の列に加え、この関白の臣下とならなかった者はいない。とりわけ秀吉は一言たりとも嘘偽りを述べたことはないゆえに天命に適うものとして選ばれたのである。予はすでに登龍鷹揚の誉れを挙げて,天皇を補佐して政務を助ける臣となり、すべての政務を関っている。しかし氏直は天道に背き、朝廷に対して奸計を企ている。どうして天罰を蒙らずにいられようか。古い諺に「巧詐は拙誠に如かず」とある。所詮は天下の勅命に逆らう輩であるので、早々に誅伐を加えないわけにはいかない。明年必ず節旄を携えて出陣し、氏直の首を刎ねることを翻意するなどありえないのだ。

 

 

 

 

本文書の最後の一つ書は、北条氏が約諾を違えた事実を一つひとつ挙げた前半4箇条に比べて、別人が書いたようにしか思えないほど悪い意味で際立っている。実際口述筆記なのだが、この部分のみ学僧などに案を練らせたのであろう。中国故事や古典を多数引用し、如何に自分が信長に尽くしてきたか、その努力の甲斐があって「天命」に適い「塩梅則闕の臣」にまで登り詰めたのだと高らかに宣言している。しかもこれまで秀吉が嘘偽りを発したことは一度もないという、見え透いたウソまでついている。事実、下線部はほとんど事実とはほど遠い。当時「人をたらす」には「人を欺く詐欺師」という意味しかなかった*31。その意味において秀吉は人を誑(たぶら)かす「人誑(たら)し」と呼ぶにふさわしい

 

ところで請け取った諸大名はこれを見てどう思っただろう。個人的には最後通牒であることは間違いないにしても、誇大妄想がかった煽動文、いわゆるアジビラにしか読めない

 

「家忠日記」を著した松平家忠の曽孫にあたる忠冬が「家忠日記」に増補、追加する目的で編んだ「家忠日記増補追加」天正16年8月15日条には、北条氏規が秀吉に謁見し、秀吉が家康と氏直の国境を巡る協定について「吾れ是を委く知らす重て氏直か臣を指し上せ猶其子細を達すへく」と北条氏規に述べている。こういった交渉の場で関白たる秀吉が「家康と北条の国境線について詳しく知らない」と述べたというのは、本文中秀吉を呼び捨てに、家康を「大神君」とするなど徳川による支配の正当性を「粉飾した」点は気になるものの、必ずしも現地の状況を詳細に把握すべきと秀吉は考えなかったのだと思われる。氏規は小田原に帰り氏政・氏直にこの旨を伝えた。また氏直は「重ねて氏直の家臣を上洛させ、その詳細を知らせるように」との秀吉の命にしたがい、板部岡江雪を大坂に遣わし、「翌天正17年12月初旬に氏直が秀吉に謁見するため上洛すれば、沼田城を与える」との言質を取っている。

 

この「家忠日記増補追加」の記事は本文書と平仄が合うので、おおむね妥当とみられる。

 

また奈良興福寺の塔頭多聞院英俊による「多聞院日記」天正16年8月18日条に「京都へは東国より相州氏直の伯父美濃の守*32上洛、東国悉く和談相調いおわんぬ、奇特*33不思儀*34のことなり、天下一等*35満足充満す」と秀吉と北条氏の和議が成立したことをきわめてめでたいことと記している。

 

なかでも「天下一等満足充満す」という記述は、秀吉と北条による武力衝突が大規模な戦争に発展し、多くの人々が巻き込まれる不安から解放された、当時の雰囲気をよく伝えている。無論当時の人々の中には傭兵として稼げる戦争を歓迎する者も多くいたはずである。その一方それとは対照的に掠奪や奴隷狩りの恐怖に怯える者も多い。どちらが多数派だったかは判断しようもないが、少なくとも英俊は「和談」(和平)を望んでいたことがこの記述からわかる。ただし「天下一等」とはいっても所詮英俊の耳目に入る範囲内にとどまる。また彼が望んだのは「和談」であって、必ずしも人口に膾炙するような「天下統一」でなかった点に注意を要する。

 

下線部に戻ろう。「麾下に属せざる者なし」とはこれまたとんでもない虚言である。しかしこの「麾下に属せざる者なし」という文言にこそ「天下統一」の本質が現れているのであり、ヒエラルヒッシュな側面を抜きにして「惣無事」を語ることは出来まい。

*1:北条

*2:6月5日富田一白・一鴎軒宗虎宛北条氏直書状

*3:信勝。織田信長の一族で天正9年から秀吉の家臣となる

*4:一白

*5:上野国利根郡沼田城

*6:昌幸

*7:上野国利根郡名胡桃城

*8:みなしご。孤児のこと

*9:バッカ。もとは近衛大将の唐名だったが、転じて将軍の居処、その臣下となった者をいう。ここでは臣下の意

*10:干(たて)と矛(ほこ)で武器や戦争を意味する

*11:夜半

*12:ツトニ。朝早くから、古くから。ここでは朝早くから

*13:励ます。自らの気持ちを奮い立たせる

*14:ナカゴロ。その途中の時期

*15:毛利攻め

*16:「会稽の恥」=敗戦の恥辱。中国故事による。以下同様

*17:天皇

*18:ハンジャ、反逆者

*19:今日では「アンバイ」と読むが当時は「エンバイ」。調味するいみもあるが、ここでは「臣下が君主をうまく助けて政務を処理する」意

*20:ソッケツ。適任者がいないときは欠員とすること。とくに太政大臣を指す

*21:アズカル

*22:バンキマツリゴト,政務全般

*23:「企」脱

*24:

*25:「巧詐は拙誠にしかず」、「たくみに人を偽るのは、拙くても誠意があるのに及ばない」の意

*26:フテンノシタ、普く覆う天の下

*27:セツボウ。天子から征伐の証しとして賜る旗

*28:きびすをめぐらす。後戻りする

*29:グレゴリオ暦1589年12月31日、ユリウス暦同年同月21日

*30:氏直

*31:『邦訳日葡辞書』など

*32:氏規

*33:「神仏などの不思議な力」の意

*34:「思いはかることもことばで言い表わすこともできない」の意。「奇特」も「不思儀」も神仏の加護による「奇蹟」を意味している

*35: