日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年11月28日梶原政景宛豊臣秀吉朱印状

 

 

今度北条事、致表裏、不恐天命、不顧恥辱、無道之仕立*1、無是非題目*2候、然者来春*3早〻被出御馬、可被加御誅伐之条、可成其意候、氏直不届次第被書顕、対北条被成御朱印候*4、其写為覚悟被遣之候、於彼面諸事可被仰付候、猶天徳寺*5・石田治部少輔*6可申候也、 

 

   十一月廿八日*7 (朱印)

           

                                  梶原源太*8とのへ

 

(四、2778号)
 
(書き下し文)
 
このたび北条のこと、表裏を致し、天命を恐れず、恥辱を顧みず、無道の仕立て、是非なき題目に候、しからば来春早〻御馬出され、御誅伐を加えらるべきの条、その意をなすべく候、氏直の不届次第書き顕わされ、北条に対し御朱印なされ候、その写し覚悟としてこれを遣わされ候、彼の面において諸事仰せ付けられるべく候、なお天徳寺・石田治部少輔申すべく候なり、 

 

 

(大意)

 

今回の小田原攻めについて、約束を違え、天命を恐れず、恥辱を顧みることのない無道な一部始終は許されざることである。したがって来春早々に自ら出馬し、「御誅罰」を加えるので、その旨あらかじめ含んでおくように。氏直の不届きな振る舞いの数々を認め、北条に対して朱印状を発したところである。その朱印状の写しを準備のため添えて送った。詳細は戦地において申し付ける。なお佐野房綱・石田三成が口頭で述べる。

 

 

 

本文書はほかに佐竹(北)義斯宛*9、佐竹(東)義久宛*10、太田資正宛*11が残されていることから、本文書も含めて常陸の戦国大名佐竹氏の関係者に限って発せられたものと思われる。しかし本文中で述べているようにあの「アジビラ」の写しも添えていた。

 

Fig. 佐竹氏関係周辺図

 

                                                                                  Google Mapより作成

佐竹氏はこのころ伊達政宗や北条氏と対立し、しばしば紛争状態(国郡境目相論)に陥っていた。秀吉から見れば惣無事の趣旨に反する「無法地帯」となり、軍事介入する絶好の機会である。

 

趣旨はおおむね前回と同様、氏直が「無道」に振る舞っていたことを強調する点で共通している。

 

 

*1:一部始終

*2:「ことがら」の意

*3:翌年1~3月

*4:前回、前々回の「天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状」最後通牒のこと

*5:佐野房綱。当初は下野国都賀郡上南摩(かみなんま)城主だったが、諸般の事情から秀吉に仕えることとなった

*6:三成

*7:天正17年、グレゴリオ暦1590年1月4日、ユリウス暦1589年12月25日

*8:政景、佐竹氏麾下の下総国の土豪で常陸国新治郡柿岡城主。太田資正の二男

*9:2777号、常陸国久慈郡太田城城主佐竹義重の一族。筑波郡小田城代を務めたこともある

*10:2778号、茨城郡武熊城主

*11:2779号、武蔵国埼西郡(埼玉郡)岩槻城主