就用水之儀、河尻与四郎*1与其方申分在之由候、先年与兵衛尉*2並左近兵衛尉*3時、美濃守*4双方之申分聞届相済候由候、所詮最前之儀者不入*5候、向後三分一高宮*6へ用水可相通候、為其申越候、恐〻謹言、
筑前守七月廿三日*7 秀吉(朱印)久徳新介殿*8進之候『秀吉文書集二』1156号、62頁(書き下し文)用水の儀について、河尻与四郎とその方申し分これあるよしに候、先年与兵衛尉ならびに左近兵衛尉のとき、美濃守双方の申し分聞き届け相済み候よしに候、所詮最前の儀は入れず候、向後三分一高宮へ用水相通すべく候、そのため申し越し候、恐〻謹言、(大意)用水の件について河尻秀長とそなたそれぞれ言い分があるとのこと。先年秀隆と左近兵衛尉の代に、秀長がそれぞれの主張を聞き決着したそうですが、結局秀長の裁定は破棄します。今後は三分の一を高宮へ用水として通すようにしてください。そのため書面にて申し入れました。
Fig. 近江国犬上郡高宮および久徳左近兵衛尉知行地周辺図(朱が久徳左近兵衛尉知行地)
下線部の「先年」がいつ頃のことを指すのか考えてみたい。
近江犬上郡の土豪である久徳左近兵衛尉は、同じく犬上郡土豪の高宮左京亮を元亀1年12月27日に敗走させている*9。また信長家臣の河尻秀隆は延暦寺焼き討ち直後の元亀2年9月21日、高宮左京亮を佐和山城にて謀殺し、25日には丹羽長秀と連名で多賀大社宛に以下の条規を下している。
一、多賀社中ならびに地下*10の儀、御朱印の旨に任せ相拘うるうえは、誰々兎角申すといえども一切承引あるべからざること、
一、高宮衆預け物*11、このたび相改むるうえは、向後別人申し分これあるべからざること、
一、向後尾州・濃州衆、社中・地下に対し、自然申すことこれあらば、神官の儀は申すに及ばず、近所衆に相語り、拘え置き佐和山へ注進あるべし、速やかに申し付くべきのこと、
丹羽五郎左衛門尉
元亀弐年九月廿五日 長秀(花押)
河尻与兵衛尉
秀隆(花押)
『大日本史料』元亀2年9月25日条
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1006/0924?m=all&s=0924&n=20
この点から「先年」が元亀2~3年のことを指すのは間違いない。美濃国出身の秀隆が、久徳氏ら旧来勢力との間で用水をめぐって争い、その裁定を秀長が行ったのであろう。秀隆は本能寺の変に接した武田氏旧臣の主導する一揆によって殺害され、他方の久徳氏も代替わりしたためか、水論が再燃したようだ。
久徳郷と高宮郷は近代にいたっても用水をめぐって激しく対立した。赤井田堰である。久徳郷は明治13年の水論において本文書の趣旨が長年の慣行であると主張している*12