定掟目条々事一、検地之水帳*3付候物*4、相さは*5へき事、
一、人之田地のそむ*6へからさる事、
其ぬし*7かてん*8候ハヽ、不可有別儀*9事、
一、為百姓内、迷惑*10仕様仕物*11候在之*12、掟目ことく中*13をたかい*14可申候、
右定処如件、
天正十一年七月 日今堀
惣中連判『八日市市史 史料Ⅰ』226号、462頁(書き下し文)定む掟目条々のこと一、検地の水帳に付き候もの、相裁くべきこと、
一、人の田地望むべからざること、
その主合点候わば、別儀あるべからざること、
一、百姓内として、迷惑仕るよう仕る者これありそうらわば、掟目のごとく仲を違い申すべく候、
右定むるところくだんのごとし、
(大意)定めた掟の条々一、検地の水帳に名請人として記載された者がその土地をすべて切り盛りすること。一、他人の田地を欲しがってはならない。ただし、その土地の「主」が承諾した場合は障りのないようにしなさい。一、百姓の内として困らせるようなことをする者がいた場合、決まりのように絶縁すること。右のように定める。以上。
本文書は太閤検地の一地一作人の原則が在地にも浸透した証左として、解釈されてきた。何れの箇条も検地帳に記載された名請人の、土地への権利を強く保証するような文言だからである。しかし、中野上掲書はこの通説的解釈に異議を唱える。
二条目「つけたり」部分の「その主、合点候」の「合点」について、要請が容易に強制に転化しうるヒエラルヒッシュな村落社会においては「承諾」も「合点」もありえないと断ずる。2020年、この500年前の一郷村の事例は現実のものとなった。それはともかく、この検地帳に名請人として記載されたからといって、彼ら/彼女ら*15の権利を絶対的に保証するものではなく、土豪や名主百姓の前では無力であったことを示す妥協的文言と解すべきとする。
実際、天正19年に同じ近江国で「おころ彦三郎」らが、土豪の井戸村与六*16に「御検地の面々名付け仕り、指出仕り候とも何時によらず召し上げられ候とも、一言の子細申すまじく候」(検地帳に名請人として記載され、それを領主に差し出したとしても、いつ召し上げられてもひと言も申し分はございません)としたため(させられ)ている*17。
なお以前の感想文に記さなかった疑問を一点付け加えておきたい。検地帳の呼称「水帳」についてである。中野氏はこれを「御図帳」とするが、検地の際使用する測量のための縄を「水縄」と呼ぶことには触れていない。この点も残念でならない。
*1:28~32頁
*2:
japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com
*3:検地帳
*4:名請人として記載された者
*5:く脱力
*6:望む
*7:主
*8:合点
*9:支障
*10:困る、当惑する。迷うも惑うも困惑することの意
*11:困窮するようなことをする者
*12:者脱カ
*13:仲
*14:違い
*15:名請人には「後家」の記載が多数ある
*16:戦国大名浅井氏の家臣今井氏の被官
*17:天正19年3月12日「近江国箕浦村おころ彦三郎等作職請状」宮川満『太閤検地論』第Ⅲ部、196号、431~433頁。なお本年7月に、八木書店より『井戸村家文書』1、2が刊行される予定である。https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2215 https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2216