前回、浅野長吉宛の知行充行状および知行目録を読んだ。今回は同じ8月1日付の書状を見ておきたい。
多羅尾四郎兵衛尉*1分、和束*2内千石、并しからき*3事、為与力申付候条、遂糺明*4、軍役已下有様可沙汰候也、恐〻謹言、
天正十一*5
八月朔日 秀吉(花押)
浅野弥兵衛尉殿
『秀吉文書集』一、750号、240~241頁(書き下し文)多羅尾四郎兵衛尉の分、和束のうち千石、ならびに信楽のこと、与力として申し付け候条、糺明を遂げ、軍役以下ありよう沙汰すべく候なり、恐〻謹言、(大意)多羅尾光俊が支配するうちの、和束から千石。および信楽庄について多羅尾をそなたの与力としますので、よくよく調べて、軍役などをきちんと務めるように命じなさい*6。謹んで申し上げました。
Fig 山城国和束および信楽周辺図
図を見て分かるように、和束と信楽は国を異にしているとはいえ、地続きである。信楽庄は摂関家領荘園だったが、明応年間中(16世紀初頭)に荘官だった多羅尾氏に押領された。多羅尾光俊は信楽庄小川に住む、信楽を実質支配する有力国人である。
与力とは、寄親である上級の大名などの指揮下に入ることで、土地を媒介にした主従関係とは異なる。したがって家臣というわけではない。与力は独立性・自立性が高い存在で、多羅尾は秀吉によって天正13年に信楽を追われるが、前年の同12年に徳川家康からも知行を充て行われており、在地土豪として隠然とした存在感を放っていたようだ。
こうした在地土豪が盤踞する地域においては、検地などで直接郷村を把握するのではなく、軍役徴発という間接的なかたちで外堀を埋めていったのだろう。前回見た「正福寺与力青木左京進」と同様、秀吉が直接掌握し得ない土地も近江には点在していたようである。
最後に下線部について述べておきたい。和束の「千石」というのは検地を行っていない以上、多羅尾の申告による数値であろうし、検地を実施したからといって石高に結ばれた数値はあくまで石高にすぎないが、年貢や軍役の負担の基準となるものである。したがって軍役などを「ありように」=ありのままに、あるべき姿で負担させることは、在地支配をより深化させることを意味する。実際、蒲生郡ではあるが浅野長吉は翌天正12年11月6日、検地の漏れを秀吉から咎められており*7、秀吉が徴発可能な線ギリギリを模索していただろうことは明らかである。