此表様子為可聞届、飛脚付置之由、尤悦被思食候、先書*1如被仰遣、去月廿七日至三枚橋*2被成御着座、翌日ニ山中・韮山*3躰被及御覧、廿九日ニ山中城中納言*4被仰付、即時ニ被責崩、城主松田兵衛大夫*5を始、千余被打捕候、依之箱根・足柄*6、①其外所〻出城数十ヶ所退散候条、付入*7ニ小田原*8ニ押寄、五町十町*9取巻候、一方ハ海手警*10船を寄詰候、三方以多人数取廻、則②堀・土手・塀・柵以下被仰付置候、北条*11首可刎事、不可有幾程候、是猶*12様子者不可気遣候、次③韮山城も付城堀・塀・柵出来候、是又可被干殺*13候、委細長束大蔵大夫*14可申候也、
四月八日*15 朱印
加藤主計頭とのへ*16
(四、3022号)(書き下し文)この表の様子聞き届くべきため、飛脚付け置くの由、もっともに悦ばしく思し食され候、先書仰せ遣わさるごとく、去る月廿七日三枚橋に至りご着座なされ、翌日に山中・韮山の躰御覧に及ばれ、廿九日に山中城中納言に仰せ付けられ、即時に責め崩され、城主松田兵衛大夫をはじめ、千余打ち捕られ候、これにより箱根・足柄、①そのほか所〻の出城数十ヶ所退散候条、付け入るに小田原に押し寄せ、五町十町取り巻き候、一方は海手警固船を寄せ詰め候、三方は多人数をもって取り廻し、すなわち②堀・土手・塀・柵以下仰せ付け置かれ候、北条の首刎ねるべきこと、いくほどあるべらず候、様子においては気遣いすべからず候、次いで韮山城も③付城・堀・塀・柵出来候、これまた干殺さるべく候、委細長束大蔵大夫申すべく候なり、(大意)こちらの戦況を知っておきたいということで飛脚を用意したこと、実に嬉しく思う。先書で述べたとおり3月27日三枚橋に着陣し、翌日山中・韮山両城の様子をうかがい、29日には秀次に山中城を責め落とすよう命じたところすぐさま落城させた。城主の松田康長はじめ、千余名の者を討ち取った。この戦果により①箱根や足柄、そのほかあちらこちらにある出城数十ヶ所も恐れをなして兵士たちが逃亡したので、このまま小田原城へ押し寄せて、あと5~10町のところまでに迫り包囲した。海沿いは警固船が守りを固めており、残る三方は大勢で包囲している。②堀、土手、塀。柵などをつくらせたので氏直の首を刎ねるのも間もなくのことであろう。こちらの戦況を心配するには及ばない。つづいて韮山城にも③付城、堀、塀、柵などを巡らして兵粮攻めにするつもりである。なお詳しくは長束正家が口頭で申す。
図1. 山中城・韮山城・小田原城ほか北条氏領国関係図
本文書においても尊敬の助動詞「被」や「御」が付けられているのは秀吉の行為であるが、一ヶ所だけ「責め崩され」と秀次の行為にも「被」が添えられている。
清正へ書き送った内容は3月29日に山中城を落とし、城主松田康長はじめ1000名以上を討ち取ったこと。箱根や足柄などの数十ヶ所の出城も兵士たちが逃亡したので、小田原城まで5~10間のところまで迫り、海上を封鎖し、陸上も堀や柵などを巡らした。韮山城も同様なので氏直の首を取るのも間近であろうということである。
下線部①から分かるのは出城の存在が戦術上重要な役割を果たしていたということである。軍事史には疎いのでそれ以上は踏み込まないが、北条氏側は各出城からゲリラ戦術を行っていたのだろう。
②、③では戦況が有利になるに従い、包囲網を堅固にするため大規模な工事を繰り返している。木材や人足を大量に必要するはずだが、どう確保したのだろうか。
ひとつの仮説として禁制を公布した駿河や伊豆など東海道近国の郷村から人足を徴発したことが考えられる。国単位の禁制を大量に発した意図もそこにあったのだろう。「安全保障」*17と引き替えに陣夫役を負担させたということではないだろうか。
「干殺し」させることは兵員の損害を最小限度に抑える点では優れているが、堀や柵、塀などを巡らせるために膨大な資材と労働力を必要とする。決して経済的な戦争とは言えず、むしろ浪費的というべきである。それを負担するのは大名でありかつ百姓である。豊臣政権の特徴のひとつに「際限なき軍役」負担が挙げられる所以である。
ところで籠城する側からは豊臣軍がどのように見えたのか
『雑兵物語』*18では雑兵たちに次のように語らせている。
敵地へは踏み込むと、あんでも*19目に見ゑ、手にひっかゝり次第にひつ*20拾うべい。とにかくに陣中は飢饉だと思うて、喰らわれべい草木の実は云うにや及ばない、根菜に至るまで馬に引っ付けろ。松皮は煮くさらかして、粥にして喰らったもよい。
これは籠城している側ではなく、城を攻めている側の状況(「敵地へ踏み込むと」)であり、兵粮を「現地調達」するための心得を説いたものである。
中近世移行期は慢性的な飢餓状態にあったが、戦地ではさらに酷かったようである。兵站・輜重はそれほど機能していなかったので、いきおい「現地調達」に走らざるを得ない。商人が出入りしていれば購入することも可能だが、そうでなければ上述のように「視界に入る、手の届く物はすべて拾い」、木の皮を剥がして煮込み「粥」にして食べることで生き残るしか術はなかったのである。
この点は次回松田康長の書状を採り上げて探ってみたい。
*1:4月1日付朱印状写、3005号
*2:駿河国駿東郡、下図参照
*3:伊豆国田方郡、下図参照
*4:豊臣秀次
*5:康長
*6:相模国西郡、「西郡」は後北条氏が足柄上下郡を西郡に再編成した
*7:敵に追い討ちをかけて城内に攻め込むこと
*8:相模国西郡
*9:「町」を城下町の「○○町」と解釈できなくもないが、他の文書では小田原城への距離として用いているから、小田原城まであと「5~10町」(545~1090メートル)の距離まで迫ったと読んだ方が適切であろう
*10:固脱カ
*11:氏直
*12:於の誤りカ
*13:兵粮攻め
*14:正家
*15:天正18年、グレゴリオ暦1590年5月11日、ユリウス暦同年同月1日
*16:清正
*17:豊臣軍兵士に掠奪をさせないといった程度の消極的安全保障に過ぎないが
*18:岩波文庫、79頁
*19:何でも
*20:必ず