日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年5月12日浅野長吉・木村常陸介宛豊臣秀吉朱印状写(4)

 

 

一、越後宰相*1・加賀宰相*2かたへも早〻手を合*3、安房守*4相抱*5候鉢形*6・松山*7・をし*8、此城〻取巻候事可急候、松山ニもをし*9にても、一城ハ此方*10ゟ相動*11候人数として可取巻候、鉢形ハ北国口ゟの人数取巻候へ*12と被仰出候、弥其通可申聞候、其外一城ハ佐竹*13を初、八州*14より罷出国侍*15可取巻事

 

 

一、松井田*16在陣衆者、小田原表行来にて候、いそき道の往還候様ニ可仕事、

 

 

(書き下し文)

 

一、越後宰相・加賀宰相方へも早々に手を合わせ、安房守相抱え候鉢形・松山・忍、これの城々取り巻き候こと急ぐべく候、松山にても忍にても、一城はこの方より相動らき候人数として取り巻くべく候、鉢形は北国口よりの人数取り巻きそうらえと仰せ出だされ候、いよいよその通りに申し聞くべく候、そのほかの一城は佐竹をはじめて、八州より罷り出ずる国侍取り巻くべきこと

 

 

一、松井田在陣衆は、小田原表行き来にて候、急ぎ道の往還候ように仕るべきこと、

 

(大意)

 

一、上杉景勝・前田利家たちとも早々に合流し、真田昌幸が苦戦している鉢形、松山、忍の各城を包囲するべく急ぐこと。松山でも忍でも、ひとつの城は当方に合流して包囲陣に加わること。鉢形城については北国口からの軍勢を包囲せよと関白様のご命令が下ったとおりなので実行に移しなさい。もう一つの城は佐竹義重をはじめとして関八州から出兵してきた地元の兵士で包囲すること

 

一、松井田城を包囲している兵士たちは、小田原城周囲の包囲網に加わるよう、道の行き来を急ぐこと。

 

 

図. 武蔵国北部関係図

 

                     『日本歴史地名大系 埼玉県』より

これまで浅野長吉や木村常陸介に、城の受け渡しは兵粮や武具など最低限のチェックのみで済ませ、次の攻撃目標に移るよう促していたが、その理由が他の苦戦している城の援軍に加わることだった(下線部①)。

 

そして下線部②は臣従した大名らに臣従の証しとして軍役を課したことを指している。義重の跡を継いだ義宣が後世書き残しているようにこの「際限なき軍役」は、常陸国の百姓が欠落し荒れ放題になった悪夢として義宣の脳裏から消えなかったほどだ。

 

これは佐竹氏側の史料を読まないと見過ごしてしまう。

 

 

*1:上杉景勝

*2:前田利家

*3:「手」は軍勢を意味する、合流して

*4:真田昌幸

*5:負担になっている

*6:武蔵国大里郡、城主は北条氏邦。下図参照以下同じ

*7:武蔵国比企郡

*8:忍、武蔵国埼玉郡。今日のさいたま市を構成する浦和や大宮などは足立郡であり、なにかと問題になるのもこのため

*9:

*10:豊臣軍本隊か

*11:はたらく=軍事行動する

*12:「そうらえ」は命令形

*13:常陸太田城主義重

*14:関東八ヶ国。「州」は訓読みで「くに」

*15:くにさぶらい。佐竹など関東地方の兵士たち。「日葡辞書」は「地方に住む貴族」とする。武家も貴族の一種に過ぎないのでこれは的を射たポルトガル語訳

*16:上野国碓氷郡、碓氷峠付近