其面之儀*1、利家*2相越、具申通被聞召候、此中無由断由尤被思召候、仍国〻地下人百姓等、小田原町中之外、悉還住事被仰付候条、可成其意候、然処人を商買仕候由候*3、言悟*4道断、無是非次第候、云売者云買者、共以罪科不軽候、所詮*5買置たる輩、早〻本在所へ可返付候、於自今以後、堅被停止之間、下〻*6厳重ニ可申付候也、
卯月廿七日*7 (朱印)
羽柴越後宰相中将*8
とのへ
(四、3040号)(書き下し文)そのおもての儀、利家相越し、つぶさに申し通し聞し召され候、このうち由断なきよしもっともに思し召され候、よって国〻地下人百姓ら、小田原町中のほか、ことごとく還住のこと仰せ付けられ候条、その意をなすべく候、しかるところ人を商買仕り候よしに候、言悟道断、是非なき次第に候、売る者といい買う者といい、ともにもって罪科軽からず候、所詮買い置きたる輩、早〻本在所へ返付すべく候、自今以後において、かたく停止せらるの間、下〻厳重に申し付くべく候也、
(大意)松井田城の戦況について、利家が小田原に参り詳しく報告したのを聞いた。油断なく行動しているようで実にもっともなことである。よって諸国の地下人や百姓たちを小田原町中のほかすべて還住するように命じたので、上野でも同様にするように。しかるに人を売買する者もいると聞くが、言語道断で許しがたいことである。売る者といい買う者といいともにその罪は軽くない。結局買った者の責任でもとの在所へ返すように。今後人身売買はかたく禁じるので下々の者まで周知させるように。
この文書を見て思い起こされるのは天正15年6月18日の日付を持ついわゆる「キリシタン禁教令」の次の一つ書である。
一、大唐・南蛮・高麗へ日本仁を売り遣わし候こと曲事たるべし、つけたり日本においては人の売買停止のこと、
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「つけたり」については「ついては」と読む解釈もあるが、ここでは「つけたり」と読んでおく。
この文書が実際に発せられたかどうかは疑問も残るが、『日本西教史』によれば秀吉が宣教師たちにこう詰問したことが記されている。
第五はポルトガル人をして日本の人民を買い、これをインド*9に送遣せしめたるはこれ何人の許可に出でたるやとの責問なり
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この二点の史料からは、ポルトガル商人が日本人を他国に売買することを禁じたのであって、人身売買一般を禁じたものとまではいえない。「禁教令」の「つけたり」もポルトガル商人が人身売買を日本で行うことを禁じたものと解釈できる。要するに秀吉の「人身売買禁止令」は労働力や兵士となる戦力の国外流出を防ぐ目的で出されたと見るのが妥当であろう。
以上の点から本文書も次のように解釈しておく。
第一に、刀狩令や八幡(海賊)禁止令のように各大名らに一斉に発出せず、上杉景勝に充てた朱印状でのみ触れていることから「人身売買禁止令」と呼ぶべきものではなく個別的に発せられたものと見るべきである。
第二に、文脈的に百姓の還住政策を行う中の条文であることである。「ことごとく還住のこと仰せ付けられ候条」ではじまり、「早〻本在所へ返付すべく候」で結んでいるように、戦争により荒廃した田畠を急ぎ再開墾する必要があり、労働力を確保するため戦乱を逃れた百姓らを還住させねばならなかった。そうした混乱に乗じて人身売買を行うのは秀吉の還住政策に反する。そうした限定的な文脈における人身売買の禁止だったのではないだろうか。
第三に「人商人」、「人勾引」といった用語を用いていない点も気になる。
翌々日の29日付の真田昌幸宛朱印状に「東国の習いに女童をとらへ売買仕り族そうらわば」とある。こちらも「在〻所〻土民・百性ども還住の儀仰せ出され候」からはじまり「早〻本在所へ返し置くべく候」で結んでおり*10、還住政策の一環として発せられたものである。これをもって人勾引による人身売買を「東国のみの習慣」と見るのは早計であろう。永正15年(1518)成立の歌謡集「閑吟集」には「人買ひ舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿」という歌が見られ、「日葡辞書」*11にも以下の語彙が立項されている。
- ヒトアキビト(人商人)=「人身売買の取引をする商人」
- ヒトカイブネ(人買船)=「奴隷、すなわち、買い取った人間を運ぶ船」
- ヒトカドイ(人勾引)=「人を呼び寄せて、だましたり、さらったりしてその人を連れて行く者」
注意すべきはこれらはポルトガル船来航以前からの語彙で、こうした行為を行っていたのは日本人だったことである。「山椒大夫」などの説話物語でも人身売買が主題となっており、列島全体で行われていたことは周知のことに属する。人身売買が大航海時代の到来によってグローバルな展開を見せたのは事実であるが、それは日本でも人身売買が行われていたからこその出来事であることを見逃してはならない。長崎などの奴隷積み出し港はこうした国内的構造と対外的契機の結節点として成立したのであって、南蛮貿易が盛んになったから日本でも突然人身売買が行われるようになったというわけではない。これらをまとめると図1のようになる。
図1. 人身売買ルート
奴隷の供給源や再生産構造について詳細を述べる余裕はないが、おもに共同体内部からは債務奴隷として、共同体外部からは奴隷狩りや戦争奴隷として発生するものと考えてよい。奴隷に婚姻が許される場合は子孫も「譜代」として原則奴隷となる。
しかも20世紀まで人身売買は公然と行われていた。昭和恐慌の農村踏査報告を行った猪俣津南雄『窮乏の農村』(岩波文庫)には「娘の身売り」という文言が頻出するが、内務省検閲官はこれらを伏せ字にすることすらなかった。脱法的な、あらゆる形での人身売買が違法とされるのは1955年の最高裁「前借金無効」判決を待たねばならない。
人身売買が身近な存在だったことは野口雨情が100年ほど前の1924年に発表した童謡「人買船」からも容易に推察される。むろん現代でも人身売買が深刻な問題であることに変わりはない。
最後に太閤検地=小農自立政策論と「人身売買禁止」政策が整合的だったことから、両者が安易に結びつき、「人身売買禁止」政策として解釈されるようになったのではないかという疑念を述べておく。太閤検地論争において安良城盛昭は有名な中世=家父長的奴隷制社会、近世=農奴制社会というテーゼを提示し、「一地一作人」など奴隷的存在だった譜代下人ら「現実に耕作する者」を検地帳の名請人とし、中世の奴隷制社会を否定したと主張した。こうした文脈において秀吉が人身売買を禁じたという議論は説得的である。ただ個別に史料を読んでいくとやはり特殊的事情を捨象することには慎重でありたい。したがって本文書をもって秀吉が人身売買一般を禁じたとするには再考の余地があると考える。
天正14年3月15日鉢形城主北条氏邦は武蔵国棒沢郡荒川郷の持田四郎左衛門・同源三郎宛朱印状で「人の売り買い一円致すまじく候、もし売買いたすについては、その郷触口*12をもって、相違なきところを申し上げ、商売致すべきこと」*13と命じている。「一円」は「完全に」という意味であり前半の「一円致すまじく」は全面的に人身売買を禁止しているかのような文面だが、「もし売買致すについては…相違なきところを申し上げ商売いたすべし」と条件が整えば届け出た上で行ってよいと後半で前半部分を否定するかのようなことを述べている。
「相違なきところ」とは人身売買する者*14とされる者*15の間に主張の「相違がなければ」という意味で、売買されることを「同意」*16し、「略売」ではないということが明らかな場合という意味だろう。もっとも「同意」といっても親が子に「因果を含める」形で同意させたケースも多かったはずである。
次回はこうした譜代下人である伊豆国泉郷「百姓窪田十郎左衛門の者」が欠落した史料を採り上げたい。
*1:上野国松井田城の戦況
*2:前田
*3:「由」とあるので伝聞による情報であろう。おそらく松井田城付近の出来事を伝え聞いたのではないか
*4:ママ
*5:結局のところ
*6:「下〻」が末端の兵士を指すのか百姓らを指すのかは微妙なところである
*7:天正18年4月、グレゴリオ暦1590年5月30日、ユリウス暦同年同月20日
*8:上杉景勝
*9:アジア一帯のこと
*10:3044号
*11:土井忠生他編訳『邦訳日葡辞書』1980年、岩波書店
*12:注進する者
*13:『埼玉県史 資料編6』648頁、1328号文書
*14:売買する主体
*15:売買される客体=しばしば「言語を解する家畜」に喩えられる
*16:「和誘」と呼んだ