日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年5月12日浅野長吉・木村常陸介宛豊臣秀吉朱印状写(2)

 

 

 

一、可相渡と申城、其案内*1を待候事ハ無分別*2候、手前之はかをやり*3、其城〻押懸候ハヽ、早速ニ可相渡候間、跡*4ニ念を不入、末/\相済候様ニ急へき事、

 

一、佐竹*5手前も*6城共可相渡由候、早〻入相*7城共急度可請取候、奥州迄道筋明*8候様ニ、急可仕候事

 

 

(書き下し文)

 

一、相渡すべきと申す城、その案内を待ち候ことは無分別候、手前の捗を遣り、その城〻へ押し懸けそうらえば、早速に相渡すべく候あいだ、跡に念を入れず、すえずえ相済み候ように急ぐべきこと、

 

一、佐竹手前も城とも相渡すべきよしに候、早々入りあい、城ともきっと請け取るべく候、奥州まで道筋明け候ように、急ぎ仕るべく候こと、

 

 

(大意)

 

一、「お渡しします」と相手が言う城について、先方の取次が到着するのを待っているような受け身の態度は実に愚かしいことである。ノルマを達成すべく、軍勢で押し寄せ威嚇すれば、さっさと明け渡すことだろう。ひとつの城に時間をかけず、下々の手に委ね次の軍事目標へ急ぎなさい。

 

 

一、常陸国主の義重が自分も城を明け渡す用意があると言っているらしい。さっさと合流して城を請け取りなさい。また佐竹にも奥州への軍役を課すように、急がせなさい。

 

 

 

図. 常陸太田城周辺図

 

                『日本歷史地名大系 茨城県』より作成

 

前回に続いて浅野長吉・木村常陸介にあてて城受け渡しに時間をかけず、ノルマ達成を促す内容となっている。

 

さて「奥州まで道筋明け候ように、急ぎ仕るべく候こと」という秀吉の要求は、佐竹家中からみれば「際限なき軍役」軍役だった。

 

『茨城県史近世編』37~40頁はこれを「絶え間ない軍役」として紹介している。また義重の跡を継いだ義宣も後年「只今の御軍役、上様*9よりきふく*10仰せ付けられ」とその時の危機的状況を回顧している*11。結局それを負担する百姓らの欠落を招き、常陸国の田畠は荒れるにまかせることになる。

 

 

*1:取り次ぐ人、リエゾン

*2:むふんべつ=後先を考えないこと、短慮

*3:計/捗/量/果を遣る=ノルマを達成する

*4:城の跡地

*5:義重。常陸国久慈郡太田城主。佐竹郷を本貫地/名字の地/一所懸命の地とした。関ヶ原戦後秋田へ移封。下図参照

*6:自分も

*7:いりあい、合流する・ランデブーする

*8:奥州まで軍勢を率いて道案内に立つこと

*9:秀吉

*10:きつく=厳しくカ

*11:『茨城県史料 中世編 4』336頁