一、天正十三*1年に信雄*2尾張国ニ有之、不相届刻、彼むつのかみ又候哉*3、人質を相捨、別儀をいたし、加賀国はしへ令乱入、城〻をこしらへ候間、則被出御馬、は城*4うちはたさせられ、越中陸奥守居城と山の城とりまかさせられ候之処、又候哉むつのかみあたまをそり走入候間、あはれニ思召、不被作*5刎首*6、城をうけとらせられ、越中半国被下、女子をつれ在大坂有之ニ付て、不便ニ被思召、津の国のせ郡*7一職ニ女子為堪忍分*8被下、剰*9位儀、公家*10ニまて被仰付事、
(書き下し文)
一、天正十三年に信雄尾張国にこれあり、相届かざる刻、彼陸奥守またぞろや、人質を相捨て、別儀をいたし、加賀国端へ乱入せしめ、城〻を拵え候あいだ、すなわち御馬出され、端城討ち果たさせられ、越中陸奥守居城富山の城取り巻かさせられ候のところ、またぞろや陸奥守頭を剃り走り入り候あいだ、哀れに思し召し、刎首なされず、城を受け取らせられ、越中半国下され、女子を連れ在大坂これあるについて、不便に思し召され、津の国能勢郡一職に女子堪忍分として下され、あまつさえ位の儀、公家にまで仰せ付けらるること、
(大意)
一、天正13(12)年に信雄が尾張国におり、目が行き届かなくなった際、あの陸奥守はまたもや、人質を捨てて、裏切り、加賀国境へ乱入し、あちらこちらに城を構えたので、すぐさま出馬し、出城を落とし、成政の居城富山城を包囲したところ、またもや剃髪して駆け込んできたので、哀れに感じ、頸を刎ねることもせず、城を与え、越中半国を与え、妻子は大坂にいて不憫に思い、摂津能勢郡一職を堪忍分として与え、そのうえ官位を公家にまでしてやったのだ。
ここで秀吉は「又候哉」を二度使っている。「またも懲りずに」、繰り返し裏切られたというわけである。しかも妻子に堪忍領を与えたうえ、「侍従」という昇殿が許される公家にさせてやったのに、というわけである。
下表1の通り、侍従は従五位下であり、官職では少納言に相当する殿上人である。
Table.1 従五位下
ちなみに公家の世界は生まれでスタートもゴールもほぼ決まってしまう。
Table.2 堂上家一覧
Fig.1 越中・加賀・尾張・摂津位置
Fig.2 摂津国能勢郡周辺図