日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年9月17日三河国幡豆郡貝吹郷宛徳川家康七ヶ条定書(下)

この文書の発給者は朱印を捺している家康だろうか、それとも文末に署名している島田重次だろうか。ヒントになるのが伊奈熊蔵が署名している天正17年10月28日付甲斐国八代郡向山(むこうやま)郷の「左近丞」ら12名に充てた七ヶ条定書である。「伊奈熊蔵家次、これを奉る」とあるように発給者は家康で、すなわち主人の意を奉(うけたまわ)って伝える文書、すなわち「奉書」として伊奈熊蔵が自らの名を添えた文書である。これに対し秀吉朱印状のように奉者を介さない文書様式を「直状」(じきじょう)と呼ぶ。熊蔵は226号文書以下では郷村名とともに数名から十数名程度の百姓の名を挙げ、「とのへ」や「殿」といった敬称までつけている。島田重次が「奉之」を省き、郷村名のみを記したのとは対照的である。にもかかわらず本文は統一されており、家康の統一的な領国支配基準を定めようとする姿勢と、それぞれの地域の奉行に委ねる分業体制の両立を図ろうとしたことが読み取れる。

 

伊奈熊蔵が在地の中に入り有力百姓を具体的に把握したのに対し、島田重次はあくまでも郷村の責任とした郷請に留まったということだろう。

 

なお本文書を網羅的に確認したい向きには自治体史では地域的な制約を受けるし、中村孝也や徳川義宣による家康文書集も編まれているもののやや古めなので、和泉清司編『江戸幕府代官頭文書集成』(文献出版、1999年)をお勧めする。また2020年12月版の「徳川家康文書総目録」も徳川林政史研究所のサイトからダウンロードできる。

 

Fig.1 甲斐国八代郡向山郷宛郷中定書

   和泉清司編『伊奈忠次文書集成』口絵、25号文書、文献出版、1981年より引用

 

 

(承前)

 

一、地頭百姓等雇*1事、年中十日充代官*2*3三日充為家別可出之扶持米右同前之事、

 

一、四分一*4者百貫文弐人充可出之之事、 

 

一、請負*5申御納所*6、若大風*7・大水*8・大旱*9之年者、上中下共以舂法*10可相定、但可為生籾*11之勘定事

 

一、竹藪有之者年中公方*12へ五十本并地頭へ五十本可出之事、

 

右被定置七ヶ条之趣、若地頭及難渋者、以目安*13可申上者也、仍如件、

                  

                       島田次兵衛尉

  天正十七年九月十七日*14  

                          重次(花押)

                        

                          貝吹之郷*15

 
(『愛知県史 資料編12 織豊2』765頁、1519号文書)

 

 

 

文書が発せられた幡豆郡貝吹郷の位置は下図2の通りである。ちなみに徳川氏発祥の地「松平郷」と家康の居城岡崎城の位置も掲げておいた。

 

Fig.2 三河国幡豆郡貝吹郷周辺図

                 『日本歴史地名大系 愛知県』より作成

 

この七ヶ条定書の主眼は下線部⑦に集約されているといってもよい。「七ヶ条にわたる地頭の百姓支配の基準を定めた以上、地頭や代官が百姓を難渋させるような場合は訴状をもって訴え出ること」を認めている*16。地頭の恣意的な支配は長期的には領国を滅ぼすことにつながるわけだから、「公的権力」=「公儀」を名乗り始める戦国・織豊大名としてあるべき姿ということになろう。それを家康は領国を網羅的かつ統一的に独自に行った点で大いに注目すべきである。

 

下線部①から③では、地頭や代官が百姓を使役する際の日数を限定し、必ず対価を支払うように命じている。つまり地頭らが百姓を無制限に使役していた現実があったのだ*17。ヨーロッパの古典荘園(英語:manor、独語:Grundherrschaft、仏語:domaine)では、農民に領主の直営地を週3日耕す義務を課せられていたが、地頭の手作り経営地はそれとよく似た構造だった。

 

経済的には必ずしも「合理的」とはいえない手作り経営に彼らがなぜこだわったのか。17世紀から18世紀にかけて幕政に携わった儒者荻生徂徠は、「元来武家の知行所に居住したる時、召し仕いたる譜代もの*18は百姓に近きもの也*19と本来農村に根づいた質実剛健な者であって、都市で暮らすような者ではないと主張している。質実剛健な武家に対し、青白く気取り屋で嫌みな公家というステレオタイプ*20は大河ドラマですっかり定着してしまったが、そういった見方は徳川の世になって1世紀経たのちの元禄期にすでに見られていた。武士の起原が軍事貴族であったとしても、都から下向して数世代も経てば土着の豪族化することは否定できない。その象徴が松平郷のような「名字の地」である。そのような非近代的な「武家のエートス」が形成されたのが日本の中世であり、それを否定し近世化を促した*21が秀吉による大名の「鉢植え化」だったのだ。

 

下線部①から⑤までの百姓の負担の概略を図示すると図3のようになる。

 

Fig.3 地頭・代官・公方への百姓の負担

地頭が自身の手作り経営地で耕作させる際は1年に10日を、代官の場合は3日を限り家ごとに課すようにし、対価として扶持米6合を必ず渡すように定めている。「家別」とは負担を均等に均すよう地頭に促しているわけだが、それは負担に耐えられなくなった百姓らが「退転」や「欠落」してしまうからである。

 

天正15年10月20日浅野長吉が領国若狭に発した判物に「地下のおとな百姓又はしやうくわん(荘官)なとに、一時もひらの百姓つかはれましき事」という有名な文言が見える。おとな百姓や荘官が経営する「家父長的奴隷制ウクラード」、つまり「作合」の否定原則であるが、家康の場合こうした大経営をある程度認めていたことがわかる。そういう点では「中世的」といえる。

 

④も「四分一人足役」という戦国大名が駆り出す人夫役の賦課基準を100貫文に付き2名と定めたものである。

 

⑤は台風、洪水、日照りなどによる凶作の際は「上中下ともに」舂法(ついほう)という、現地の収穫具合を百姓らとともに確認した上で年貢量を定める方法を採るよう命じ、さらに「生籾」で計算するようにとも指示している。米は20世紀末まで容積で量るものだった。籾殻のついた「生籾」で勘定すれば実質過大に計算されるので、百姓側にとってはやや「甘め」と言えたかもしれない。もっとも中世の月別死亡者数は端境期が圧倒的に多いように大量の餓死者を出していたので、焼け石に水といったところだろうが。

 

⑥は竹藪を所持する百姓に限り、領主である地頭へ50本、荘園領主である「公方」へ50本納めるよう命じている。

 

本文書の主眼は上述のように地頭の恣意的支配を制限することにあった。家康のこうした一種「仁政イデオロギー」は征夷大将軍就任直後の3月27日付の「覚」にも見られるもので、信長の「覇道」に対して「王道」*22を目指したといってよいだろう。

 

*1:「傭」とも書き、「やとう、やとわれる」の意。現在「雇用」と書くことが多いが本来は「雇傭」が正しい。給金を支払って人を雇うこと。かつて官庁や会社に「雇員」という臨時雇いの、現在でいう非正規の職名があったように、本来的ではなく一時的、または年限を限って雇う場合をいう。また「結い」のように仕事を手伝う場合に用いる地域もある

*2:家康の直轄地を管理する役人

*3:「やとう」。「雇」と意味は同じで

*4:四分一人足役のこと。戦国大名らが百姓に課した普請人足役

*5:荘園領主に年貢・公事・夫役の納入を請け負っている者

*6:前回の第一条で「御年貢納所」について誰に対して「御」を付けて敬意を表しているのか未詳であると述べたが、荘園領主に納める年貢も含めているため「御」を付けている可能性が出てきた

*7:「タイフウ」。英語の「typhoon」が日本語の「颱風/台風」に由来するという話を時々目にするが、1603年の『日葡辞書』に「Taifŭ(タイフウ)」、「Vôcaje」(オオカゼ)と見えるので、tycoonが「大君」に由来するのとは異なるようだ

*8:「タイスイ」または「オオミズ」

*9:「タイカン」または「オオヒデリ」

*10:ツイホウ

*11:脱穀する前の外皮に包まれたままの米

*12:ここでは荘園領主のこと

*13:訴状のこと

*14:グレゴリオ暦1589年10月28日、ユリウス暦同年同月18日

*15:三河国幡豆郡、下図2参照

*16:なお慶長8年(1603)3月27日内藤清成・青山忠成連署「覚」も代官や地頭の恣意的な支配があった場合には訴え出るよう百姓に命じている

*17:「望ましくない現実」を「あるべき姿」に変えるため立法主体が法令を定めるのであって、現実が理想に近いなら、あるいは問題視するに値しないならばわざわざ定める必要はない。追加の法令が何度も出されるのはその「望ましくない現実」が実際に起こっているからである

*18:「譜代」とは先祖代々その主家に仕えている者のことで、ここでは一年季契約の出替わり奉公人に対して用いられている。「譜代下人」は子どもを産む、つまり下人を再生産することで「代々」主家の家産となっているものである

*19:辻達也校注『政談』66頁、岩波文庫、1987年。下線は引用者

*20:偏見を生むだけで非歴史的だと思う

*21:太閤検地論以降1980年代までは、もっぱら秀吉が近世化=兵農分離を推し進めたといった論調が主流であったが、藤木久志氏の「百姓の側からの兵農分離」論や平井上総氏『兵農分離はあったのか』(2017年、平凡社)のように在地の動向が秀吉にいわゆる「兵農分離」政策を促した、という論調が最近の主流である

*22:「学問に王道なし」のように英語の「royal road」を訳した「楽な道」、「安易な方法」という意味ではなく、「徳」により統治を行うという儒学的な思想のこと