一②、国〻浦〻船頭・猟師、いつれも舟つかひ候もの、其所之地頭代官として速相改、向後聊以海賊仕ましき由誓紙*1申付、連判をさせ、其国主取あつめ可上申事、
一③、自今以後、給人領主致由断、海賊之輩於在之者、被加御成敗、曲事之在所知行以下末代可被召上事、
右条〻堅可申付、若違背之族在之者、忽可被処罪科者也、
天正十六年七月八日*2(朱印)
(書き下し文)
一②、国〻浦〻船頭・猟師、いずれも舟使い候者、その所の地頭代官として速やかに相改め、向後いささかもって海賊仕るまじき由誓紙申し付け、連判をさせ、その国主取り集め上げ申すべきこと、
一③、自今以後、給人領主由断いたし、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所知行以下末代召し上げらるべきこと、
右条〻堅く申し付くべし、もし違背の族これあらば、たちまち罪科に処せらるべきものなり、
(大意)
一②、全国の浦々の船頭・猟師、双方とも舟を用いる者は、そこを支配している地頭もしくは代官の責任において速やかに取り調べ、今後いささかたりとも海賊行為を行わない旨の誓紙に署名するよう命じ、連判させ、それらの誓紙を国主として徴集しこちらへ差し出すようにしなさい。
一③、今後、給人や領主が油断して、海賊行為を行う者が現れた場合は、成敗を加え、曲事の在所の者を厳しく処罰し、知行以下は永遠に取り上げるものとする。
右三ヶ条厳しく命じるものである。万一これに背く者は、すぐさま断罪するものである。
ここで海賊禁止令の充所を再確認しておく。
Fig.1 海賊禁止令充所
おおむね、京都・大坂から瀬戸内海を経て朝鮮半島・中国大陸方面へ向かう航路と南蛮方面への玄関口を確保しようとしたと言えそうである。
②の誓紙=請書は図2のように、大名領国では地頭へ、太閤蔵入地では代官に提出し、それを国単位で「国主」がまとめる手続きを踏んでいる。豊臣政権で「国」が支配の重要な単位であったことがうかがえる。
さらに③では、この法度に背いた場合、責任者である「給人・領主」*3は知行を召し上げ、浦々の者は「成敗」=斬罪に処すと二重の責任を明確にした。これは領主が当座の主であり、百姓がその土地に永遠に根づいた存在とする豊臣政権の検地方針を、海上にも敷衍したものと理解できる。
Fig.2 誓紙と地頭・代官・国主
こうして浦々も郷村同様に豊臣政権のもと再編成され、同日発せられた刀狩令と同様自力救済を否定された。以降海賊行為は「公儀」に背く違法行為とされた。