日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年12月12日三河国渥美郡亀山村宛彦坂元正年貢割付状

 

天正17年の年貢割付状はきわめて貴重である。ただかなり煩雑になるので本文の大半を表にし、重要と思われる部分のみを引用した。本文書はもともと亀山区有文書という、共同体の構成員が全員で管理したり、区長が持ち回りで管理する共有財産*1だった。亀山に限らず渥美郡には各区有文書が多く伝存し共同体の紐帯の強さを示している。こうした区有文書は全国各地にあったが、負担が持ち出し*2であるため今日的には保存が難しくなってきている。文書群の伝わり方がそれ自身が歴史的な経緯を物語ることに注意したい。

 

 

     

    

      一、亀山村*3

 

一、田畠歩合壱万九千七百八歩             高辻*4

    此内

  屋敷弐百九拾四坪*5                   百姓屋敷分渡

    此代壱貫九百六拾文

  此取俵壱俵弐升六合六勺九才

    但屋敷ハ中田二歩*6如此渡也、

  中田百五拾歩                   寺領引*7

    此代五百文

  此取八升三合三才

  中田三百歩                    神領引

    此代壱貫文

  此取壱斗六升六合六才

 

(中略・・・下表参照)

 

 引残而  廿壱俵壱升八合七勺一才

 

    御公方納分

 

 くちなし原*8大道*9切かねはる*10かいバ*11くね*12、石登*13鷹山*14之内かま*15入す*16、鷹山いらさる時百姓かまを入、公儀拾駄、地頭拾駄、柴を可上納也、

 

  但地頭より預り一札を取可納也、

 

右之ことく何も納所可仕之也、仍如件、

 

  丑極月十二日*17       彦坂小刑部(黒印)*18

 

      亀山年老中*19

 

(『愛知県史 資料編12 織豊2』1570号、809~810頁)

 

 

 

(書き下し文)

 

      一、亀山村*20

 

一、田畠歩、合わせて19,708歩             高辻

    このうち

  屋敷294坪                      百姓屋敷分渡す

    この代1貫960文

  この取俵1俵2升6合6勺9才

    ただし屋敷は中田二歩に延ばしかくのごとく渡すなり、

  中田150歩                    寺領引き

    この代500文

  この取8升3合3才

  中田300歩                    神領引き

    この代1貫文

  この取1斗6升6合6才

 

(中略・・・下表参照)

 

 引き残って  21俵1升8合7勺1才

 

    御公方へ納む分

 

 くちなし原は大道切り、かねはる飼葉くね、石登は鷹山のうちは鎌入ず、鷹山入らざる時は百姓鎌を入れ、公儀へ10駄、地頭へ10駄、柴を上納すべきなり、

 

  ただし地頭より預り一札を取り納むべきなり、

 

右のごとくいずれも納所これを仕るべきなり、よってくだんのごとし、

 

(大意)

 

  (数値の部分は下表を参照されたい)

 

  差し引きして21俵1升8合7勺1才は「御公方」へ納めるべき分。

 

くちなし原は大道を境とし、かねはるの飼料を刈り取る所は生け垣で囲い、石堂山は鷹狩りの期間は鎌入は禁じ、そうでない時期は鎌入に入り「公儀」へ10駄、地頭へ10駄上納しなさい。

 

  ただし地頭へ納める時は必ず書面を受け取りなさい。

 

右のようにいずれも納所すること。以上である。

 

 

最後の部分は意味が取りにくいが、かなり大胆かつ粗雑に意味を取ってみた。「くちなし原」はその後近世でもしばしば隣村と争いの種になっているが、現在その地名を残していない。「石登」という表記は近世史料にも「石登山」、「石堂山」と見えるので石堂山を指していることは間違いない。下図2のように「石堂山」という小字は亀山のみならず周辺町にもあり、村域争いの痕跡を今に伝えている。「かねはる」はしばしば村境をめぐって争った中山町の亀山町近くに見える「兼原郷」と思われるが、はっきりしない。

 

近世の渥美郡は図1のように支配領主が錯綜し、またたびたび交替することが多かった。ある日を境にこれまで同じ領主の支配下にあったA村とB村が領主を異にすることも珍しくなかった。

 

Fig.1 三河国渥美郡幕末領地図

                   『渥美郡誌』附図より作成


Fig.2 現田原市亀山町領域と石堂山

                    GoogleMapより作成

Fig.3 「かねはる」推定地

                      GoogleMapより作成

Table. 年貢割付状差し引き

問題は「御公方」と「公儀」であるが、「御」とあるから他称であることは間違いない。おそらく荘園領主への「公事」として燈や調理、暖を取る燃料である「柴」10駄を納めるのではないだろうか。公儀は豊臣大名である徳川家であり、地頭は地元を支配する領主である。

 

年貢その他を納める際は必ず地頭から「預り一札」を受け取るように村の「年老中」に命じているが、これも地頭の恣意的支配を排除する政策基調である。文書主義や人格的支配の否定はマックス・ウェーバーの議論を想起させる。

 

また「年老中」という惣村のような団体が亀山村に存在していた点も注目される。何世紀にもわたって亀山区有文書として残されてきた経緯も頷ける。

 

今回数値の計算は控えた。どこをどう足し、どう引くのかはっきりしないからである。数値も解釈によって大きく異なる。「御公方」と「公儀」はそのいい例であろう。算出してみたところで超歴史的な見方を促すだけである。

 

*1:「おじいさんが芝刈り」に行けるのは入会地だからである。しかし地租改正時こうした入会地は「部落有林」などとして現地に残されたものもあるが、多くは「官有地」として没収され、立ち入りを禁じられた。そのため牛馬の餌や肥料、燃料などに事欠き、村民が農商務大臣を相手取って民事訴訟を起こすなど禍根を残した。なお入会地は共同体規制に縛られた共同体構成員のみが利用できるので、たとえば公海上の漁業資源のような「オープンアクセス」の場合のみを対象にした「共有地の悲劇」モデルを入会地に適用するのは適切ではない。そもそも「オープンアクセス」は無主地と呼ぶべきもので、共有地ではない。入会地をめぐる悲劇は戒能通孝『小繋事件』(岩波新書,1964年)などを参照

*2:自弁

*3:三河国渥美郡、下図1~3参照

*4:「辻」は合計

*5:「坪」=「歩」

*6:「延ばす」で「緩くする」の意

*7:除地

*8:亀山村の入会地。くちなし原をめぐって近世では隣村とたびたび相論となっている

*9:伊良湖大道のことか?

*10:現愛知県田原市中山町の兼原郷カ、下図3参照

*11:飼葉、牛馬の飼料

*12:竹で編んだ生け垣

*13:石堂山、下図2参照

*14:鷹狩りのこと

*15:

*16:「鎌を入れる」は山野で飼料を刈り取るの意。藤木久志氏が明らかにしたように山論などの際、相手の鎌を奪う慣習が中近世の百姓にはあった

*17:天正17年、グレゴリオ暦1590年1月17日、ユリウス暦同年同月7日

*18:元正、伊奈忠次と同様家康の代官頭を務め、忠次の備前流とともに彦坂流の名を残したが地方書によると廃れたらしい

*19:トシオイチュウ、年寄衆などと同様重立った百姓衆の意。相撲界の年寄名跡などにその名残を留めるにすぎないが、「老」には「おとな」の読みがある

*20:以下、邪道だがアラビア数字を用いた