天正16年7月8日、秀吉は二通の朱印状を発した。いわゆる海賊禁止令と刀狩令である。これらは中世の原則である自力救済を禁じた「惣無事」政策の重要法令として位置づけられる。刀狩令が百姓の完全な武装放棄を促したといえないことは、今日では常識になっているが、豊臣政権が大きな一歩を踏み出したことは間違いない。有名な文書であるからこそ丁寧に読んでいきたい。
(端裏書)
「 羽柴柳川侍従とのへ*1 」
定
一①、諸国於海上賊船之儀、堅被成御停止之処、今度備後・伊与両国之間、伊津喜島*2にて盗船仕之族在之由被聞食、曲事二思食事、
一②、国〻浦〻船頭・猟師*3、いつれも*4舟つかひ候もの、其所*5之地頭代官*6として速相改、向後聊以海賊仕ましき由誓紙*7申付、連判をさせ、其国主*8取あつめ可上申事、
一③、自今以後、給人領主*9致由断、海賊之輩於在之者、被加御成敗、曲事之在所知行以下末代可被召上事*10、
右条〻堅可申付、若違背之族在之者、忽可被処罪科者也、
天正十六年七月八日*11(朱印)
(三、2552号)(書き下し文)「 羽柴柳川侍従殿へ」定
一①、諸国海上において賊船の儀、堅く御停止なさるるのところ、このたび備後・伊与両国のあいだ、伊津喜島にて盗船仕るの族これある由聞し食され、曲事に思し食すこと、
一②、国〻浦〻船頭・猟師、いずれも舟使い候者、その所の地頭代官として速やかに相改め、向後いささかもって海賊仕るまじき由誓紙申し付け、連判をさせ、その国主取り集め上げ申すべきこと、
一③、自今以後、給人領主由断いたし、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所知行以下末代召し上げらるべきこと、
右条〻堅く申し付くべし、もし違背の族これあらば、たちまち罪科に処せらるべきものなり、
(大意)「 立花宗茂殿へ」定一①、諸国海上において海賊行為を働く船について、厳禁としたところ、このたび備後・伊与両国の国境線上にある伊津喜島にて海賊行為を行った者があるという噂を耳にした。これは曲事である。一②、全国の浦々の船頭・猟師、双方とも舟を用いる者は、そこを支配している地頭もしくは代官の責任において速やかに取り調べ、今後いささかたりとも海賊行為を行わない旨の誓紙に署名するよう命じ、連判させ、それらの誓紙を国主として徴集しこちらへ差し出すようにしなさい。一③、今後、給人や領主が油断して、海賊行為を行う者が現れた場合は、成敗を加え、曲事の在所の者を厳しく処罰し、知行以下は永遠に取り上げるものとする。
右三ヶ条厳しく命じるものである。万一これに背く者は、すぐさま断罪するものである。
本文中にある伊津喜島とは現在の斎島で、瀬戸内海中央に位置する。
Fig1. 備後・伊予国境線と伊津喜島
『秀吉文書集』に収載されている海賊禁止令の充所を一覧にしたのが下表であるが、本文書の端裏書に「羽柴柳川侍従とのへ」と記されている一例を除き、充所は記載されていない。おそらく一斉に大量発給するため省略したのであろう。また、下表のようにおおむね瀬戸内海沿岸に領国を持つ大名に限られており、さらに①の下線部にある斎島での事件に対応した法令と見ることもできるが、「諸国海上において賊船の儀、堅く御停止なさるるのところ」とあるように、以前にも全国へ公布したと読める部分もあり、位置づけはむずかしい。
Table. 海賊禁止令一覧
本文の詳しい検討は次回としたい。
*1:立花宗茂
*2:中世末期までは伊予に、それ以降は安芸に属した斎島。図1参照
*3:漁師のこと
*4:どちらも
*5:所領、荘園、領地などその者が支配する土地
*6:地頭は領主、代官はいわゆる太閤蔵入地の代官。ただし、豊臣政権では「地頭」=大名が分国に隣接する直轄地の代官を兼ねるケースが多い
*7:起請文
*8:「地頭」や「代官」を統括する「国主」扱いの大名がいたらしい。
*9:①前条の「地頭」と同じ意味と解する立場、②前条の「地頭」の家臣、つまり秀吉の陪臣にあたる者と解する立場の二通りの解釈がありうるが、当ブログは後者の解釈を採用した。詳細は本文中で述べる
*10:在所は「郷村」や「浦々」、知行は土地の支配権。郷村や浦々構成員を成敗し、知行権を永久にとりあげるという意味。つまり海賊行為を行った当事者はもちろん、取り締まり能力の欠如した者の知行権も永久に取り上げるという責任の所在が二重にあることを明文化した。これは百姓は土地に根づく半永久的な存在であり、領主は当座を預かっているに過ぎないという豊臣政権の在地政策の原則と対をなしている
*11:グレゴリオ暦1588年8月29日、ユリウス暦同年同月19日