忍之城*1儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命迄儀被成御助候様与、達而色〻歎*2申由候、①水責ニ被仰付候者、城内者共定一万計も可有之候歟、②然者憐*3郷可成荒所候間相助、城内小田原ニ相籠者共足弱*4以下者端城*5へ片付、何茂請取候、岩付之城同前ニ鹿桓*6結廻入置、小田原一途之間者*7、扶持方*8可申付候、其方非可被成御疑候間、別奉行不及被遣之候、本城請取急与可申上候、③城内家財物共不散様、政道*9以下堅可申付候也、
六月十二日*10 (朱印)
石田治部少輔とのへ*11
(四、3267号)(書き下し文)忍の城の儀、御成敗を加えらるべき旨、堅く仰せ付けられ候といえども、命までの儀お助けなされ候ようと、たって色〻歎き申す由に候、①水責めに仰せ付けられそうらわば、城内の者どもさだめて一万ばかりもこれあるべく候か、②しからば隣郷荒所になるべく候あいだ相助け、城内小田原に相籠る者ども足弱以下は端城へ片付け、いずれも請け取り候、岩付の城同前に鹿垣結い廻し入れ置き、小田原一途の間は、扶持方申し付くべく候、その方御疑なさるべきにあらず候あいだ、別奉行これを遣わせらるるに及ず候、本城請け取りきっと申し上ぐべく候、③城内家財物ども散らざるよう、政道以下堅く申し付くべく候なり、(大意)忍城の件、撫で切りにせよと申し付けたが、助命をするようたびたび訴えてくるとのこと。①水攻めを命じたのだから、籠城している者は一万人程にもなるだろうか。②そうすれば隣接する郷村は荒廃してしまうので助命し、また忍城や小田原城に籠城する者のうち女・子ども・老人などは出城へ移動させ、いずれの城も請け取ることとする。岩付城と同様に鹿垣を張り巡らせ閉じ込めておき、小田原に掛かりきりの今は、そなたが食事を与えなさい。そなたを疑っているわけではないので、別の奉行を派遣するには及ばない。忍城を請け取り必ず報告するように。③城内の家財物などを散らかさないように、規律正しくせよ。
Fig1. 鹿垣


忍城には城主成田氏長が小田原城へ赴いたため、成田泰季、長親父子、氏長の室女、侍69人、足軽420人のほか、百姓・町人・法師・神官・雑兵など2627人、15歳以下の童部1113人、非戦闘員男女合計3740余人が立て籠もった*12。総計で4232人で秀吉の予想1万人の半分にも満たないが、88%が非戦闘員であった*13。詳細は不明だがここで「足軽」と「雑兵」が異なるカテゴリと認識されていたように、これらの区別は前者が軍事的訓練の経験がある者で、後者はそうでない「とりあえず頭数を揃えた」程度の者と思われるので、非戦闘員の数に含めても大差はないだろう。
さて下線部①によれば、忍城の水攻めは「仰せ付けられ」とあるように秀吉の案だったようである。
Fig.2 忍城古図

水攻めは当然のことながら周辺郷村の田畠をも呑み込んでしまい、その荒地を元の通り耕地にするには莫大な財力と労力を必要とする。したがって水攻めも短期で終わらせることが望ましいというのが下線部②の趣旨である。当然のことだが敵の城を落城させれば「めでたしめでたし」というわけにはいかない。年貢などを徴収するための基盤である耕地の安定化を進める必要がある。このような領主の務めを「勧農」と呼ぶ。
下線部③は城内の家財を掠奪する兵士が出ないように規律正しくさせよという命令である。掠奪目的で戦争に参加する傭兵的な存在が、合戦の勝敗より「いかに敵地で多くをむしり取るか」を優先していたことは諸将の悩みの種であった。
*1:武蔵国埼玉郡
*2:哀願する、切に祈る
*3:隣
*4:老人、女性、子ども
*5:出城、付城
*6:垣、ししがき。田畠を荒らす獣除けのためのバリケード。木の枝や竹を結んで作るものから石垣と見紛うほどのものまで形は様々だった。それを軍事転用することは自然なことでもある。図1参照
*7:小田原城攻めに掛かりきりになっているあいだは
*8:食糧、食い扶持を掌る役職
*9:統制すること。ここでは軍紀の粛正を徹底すること。なお粛正=cleanupと粛清=purgeは異なる
*10:天正18年、グレゴリオ暦1590年7月13日、ユリウス暦同年同月3日
*11:三成
*12:「忍城戦記」501頁『埼玉叢書 第2 新訂増補』所収
*13:「雑兵」は除く