日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年12月26日加藤正次宛三河国碧海郡河野郷年貢請負一札

 

本文書は郷村から家康家臣の加藤正次に差し出された請負一札の写で、雛形写も残されているという。ただ原本の所在は不明で、塚本学氏による筆写原稿のみが残されており*1「(印)」とあることから控え(副本)を筆写したとも考えられる。

 

重要な点は発給人が郷村で受給人が領主というきわめて珍しい文書であり、この一点のみしか残されていないが、こうした百姓請負一札を百姓から提出させたことは前々回の伊奈忠次発給文書でも確認できるから家康領国においては制度化されていたのだろう。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

しかし翌天正18年の家康関東移封によりこうした百姓が請負一札を提出する制度は廃れたようだ。なお『新編岡崎市史2中世』1122頁、本多隆成『定本徳川家康』153~154頁*2でも本文書を採り上げており、本多氏は「総検地から始まった一連の過程は、百姓たちの協力と合意をえることによって、最終的に完結した」*3と百姓の協力と合意が不可欠だったことを指摘している。

 

ただ後述するように、この「百姓たち」にも明らかな身分差や階層性が存在していたことは確かであり、構成員が平等な権限をもつ共同体ではなくヒエラルヒッシュな構造を有していたことを見逃してはなるまい。

 

 

 

    今度御縄*4之上御請負代わヶ*5之事

 

上田拾・中田八ツ・下田五ツ、上畠壱貫弐百文・中畠八百文・下畠四百文、右之分御請負申候処少御無沙汰申間敷候、若大風・大水・大干*6之年上中下共二以舂法*7被(闕字)仰付可被下候、仍如件、

 

  丑十二月廿六日*8                  河野之郷*9(印)

 

    加藤喜助殿*10

        まいる

 

 

(『愛知県史 資料編12 織豊2』1580号文書、816頁)

(書き下し文)

 

    今度御縄の上御請負しろわけのこと

 

上田十・中田八ツ・下田五ツ、上畠一貫二百文・中畠八百文・下畠四百文、右の分御請け負い申し候ところすこしも御無沙汰申すまじく候、もし大風・大水・大干の年は上中下ともに舂法をもって仰せ付けられ下さるべく候、よってくだんのごとし、

 

 

(大意)

   今回御検地の上年貢納入を請け負ううちわけについて

 

上田は10、中田は8つ、下田は5つ、上畠は1貫200文、中畠は800文、下畠は400文の割合をもって年貢納入を請け負いましたので、けっして未進することはありません。もし嵐や洪水、日照りなどの年は上中下の田畠ともに舂法によって年貢納入量をお決め下さるようお願い申し上げます。以上。

 

 

 

河野郷は下図のように矢作川の河畔にある郷村である。

 

Fig.1 三河国碧海郡河野郷周辺図

                  『日本歷史地名大系 愛知県』より作成

舂法は、図2のようにその年の作柄に応じて籾のうち不熟米などを取り除く検見法の一作業である。

 

Fig.2 舂法

                   安藤博『徳川幕府県治要略』より引用

「大風・大水・大干(旱)」の年は「舂法」を用いることは七ヶ条定書に見える文言で、百姓たちが逆に家康の奉行たちに必ずそれを履行することを要求したものと解することができる。郷が押印していることや文書発給能力を持っていたことで領主に要求できたのである。やはり何らかの形で「双方向的な」回路が成立していたことをうかがわせる文書である。「大風・大水・大干(旱)」はのちに下表1のように「風損・水損・日損」という文言で定着してゆくが、不作の年は年貢減免を要求する下地がすでに出来上がっていた。

 

Table.1 大風・大水・大干から風損・水損・日損へ

 

さて河野郷は田には「10、8ツ、5ツ」と、畠には「1200文、800文、400文」を1反当たりの斗代として請け負っている。それぞれ「1石、8斗、5斗」の意*11で、畠は河野郷の場合貫高で示されているが、表2のようにそうでない郷村もある。したがってこれら斗代が生産量か、年貢収取量か、年貢賦課基準量か本文書のみで判断することはできないが、生産量は広い意味では年貢賦課基準量に含まれる。

 

Table.2 五ヶ国総検地における三河国反当たり年貢高

 

ちなみ慶長9年(1604)の反別内訳と比較すると下表3のようになる。15年の差はあるものの「上中下田、上中下畠」の内訳はそれほど変化していない。


Table.3 1604年の反別との比較

                       『安城市史』351頁、表5-10より作成

 

慶長9年における名請人の持高による階層分布は図3の通りである。

Fig.3 1604年の名請人持高分布

                      『安城市史』353頁、表5-11より作成

また屋敷地の面積と持高の相関関係を見ると図4のようになる。名請人24名中、1石未満の二人と10石前後の二人が屋敷をもたない。

 

Fig.4 慶長9年時の名請人持高と屋敷地面積

                          同上

 

天正17年からは1世紀以上、慶長9年からも90年近くのちの元禄5年の史料によると、村内には本百姓33軒中、庄屋、組頭のほか13軒の「長(おとな)百姓」という身分があり、さらに本百姓には数えない、つまり「軒数」ではなく「人数」で数えられる座頭や水呑百姓、下人などの身分があった。天正期にもこうした身分差はあったことだろう。

 

Table.4 元禄5年(1692)「川野村反別差出帳」に見える村内身分

元禄5年「三州碧海郡川野村反別差出帳」(『安城市史資料編中近世』146~9頁)より作成

この文書は村況を領主に申告する文書で庄屋、組頭、長百姓の16名が署名捺印しているが、本百姓17名は署名していない。つまり、作成者である村がこうした身分を定めているのである。

 

朝尾直弘氏は「身分」について次のように指摘する。

 

 

 

身分というものが封建的な領主によって上から設定されてつくられたということについては、違った考えを持っておりまして、むしろ身分は非常に狭い地域から最初は始まって、それがだんだん大きく広がって、社会的に一つのレベルに達した段階で、権力側の反応による編成があって、その身分の社会編成・序列化がなされたというような理解をしております

 

(朝尾「『身分』社会の理解」96頁、『日本歷史の中の被差別民』1997年の講演を文章化したもの。下線は引用者)

 

 

 

河野郷の「長百姓」もこの「非常に狭い地域」での身分に当たるだろう。

 

1世紀以上時期の異なる文書を比較しあれこれと取り留めのない話になってしまったが、河野郷は領主に年貢納入を請け負い、郷印を持ち、また不作の年は年貢減免を必ず行うように要求するほどの団体に成長していたこと。しかしその団体もきわめて垂直的な構造を持っていたという両義的な存在だったことを指摘しておきたい。

 

*1:『新編安城市史5資料編古代・中世』716頁

*2:吉川弘文館、2010年

*3:同上書154頁、強調は引用者

*4:検地

*5:「シロワケ」。「代」は田畠。その内訳の意

*6:旱のこと

*7:下図2参照

*8:天正17年、グレゴリオ暦1590年1月31日、ユリウス暦同年同月21日

*9:三河国碧海郡、下図1参照

*10:正次、家康家臣で五ヶ国総検地を担当した奉行の一人である

*11:本多前掲書153頁