日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(4)

 

一、御開陣之刻、国人*1くまもとの城主*2・宇土城主*3・小代之城主*4かうべをゆるさせられ*5、堪忍分を被下、城主女子共ニ大坂へ被召連*6、国ニやまい*7のなき様ニ被仰付、其外残の国人之儀、人質をめし被置*8、女子共陸奥守有之在くまもと*9ニ被仰付候処、国人くまべ但馬*10豊後*11と令一味、日来無如在者*12之儀二候間、本知*13事ハ不及申、新知*14一倍*15被下ものゝ所へ、大坂へ一往之御届不申、陸奥守取懸*16候に付て、くまべあたまをそり、陸奥守所へ走入候之処、其子式部太輔*17親につられ候とて山賀之城*18へ引入在之、国人并*19一揆をおこし、くまもとへ取懸候て、陸奥守及難儀候間、小早川*20・龍造寺*21・立花左近*22を始被仰付、くまもとへ通路城へ兵粮入させられ候へ共、はか*23不行ニ付て、毛利右馬頭*24被仰付、天正十六年正月中旬、寒天之時分如何雖被思召候、右之人数*25被仰付、肥後一国平均ニ罷成候事、

 

 

(書き下し文)

 

一、御開陣の刻、国人熊本の城主・宇土城主・小代の城主頭を赦させられ、堪忍分を下され、城主・女子ともに大坂へ召し連れられ、国に病のなきように仰せ付けられ、そのほか残りの国人の儀、人質を召し置かれ、女子ども陸奥守これある在くまもとに仰せ付けられ候ところ、国人隈部但馬、豊後と一味せしめ、日来如在なき者の儀に候あいだ、本知のことは申すに及ばず、新知一倍下されもののところへ、大坂へ一往の御届申さず、陸奥守取り懸かり候について、隈部頭を剃り、陸奥守ところへ走り入り候のところ、その子式部太輔親に釣られ候とて山賀の城へ引き入れこれあり、国人并び一揆を起こし、熊本へ取り懸かり候て、陸奥守難儀に及び候あいだ、小早川・龍造寺・立花左近をはじめ仰せ付けられ、熊本へ通路城へ兵粮入れさせられそうらえども、捗行かざるについて、毛利右馬頭仰せ付けられ、天正十六年正月中旬、寒天の時分いかが思し召され候といえども、右の人数仰せ付けられ、肥後一国平均に罷り成り候こと、

 

(大意)

 

一、島津攻めを始めたころ、国衆である熊本城主城久基、宇土城主名和顕孝、小代城主小代親泰の刎頸を赦し、本領安堵し、城主妻子ともども大坂へ住まわせ、国に憂いのないように命じ、その他の国衆は人質を成政の居城である熊本に住まわせた。ところが隈部親永が「豊後」と同心して一揆を起こし、日頃から手落ちのない者と見込んで、本領はもちろん新知行地も与えたのに、大坂へ訴え出ることもせずいきなり成政が攻めかかり、親永が剃髪して成政のもとへ駆け込んできた。しかし親永の子親泰が親の軽挙に釣られて山鹿城へ立て籠もり、国衆らと一揆を起こし、熊本城へ攻めかかり、成政は難渋していた。そこで隆景、政家、宗茂らに出陣を命じ、熊本への通路を確保させ兵粮を補給したがなかなか捗らず、輝元にも出陣を命じ、翌16年正月中旬、寒さの厳しい折にどうかとは思ったが、以上の者たちに出陣を命じ、ようやく肥後一国を平らげたのである。

 

 

時系列が前後したり、話題が尻切りになっていて理解しにくいところも多いが、おおむね肥後の諸勢力に対して秀吉は下線部のように本領安堵や新恩給与をするなど現実的で漸進的対応をしたが、その配慮を無視して成政が独断的にことを進めたと言っているようである。

 

地元諸勢力を秀吉はここで「国人」と呼んでいるが歴史学用語の「国衆」と読み替えた方がよさそうなので、当ブログの解釈もそれに倣った*26

 

ところで室町将軍家の直臣を列挙した「永禄六年諸役人付」に以下のように見える。

https://www.digital.archives.go.jp/acv/auto_conversion/conv/jp2jpeg?ID=M1000000000000051295&p=11

 

①外様衆 大名在国衆 国人と号す

 

御相伴 大友左衛門督入道宗麟 

御相伴 北条相模守氏康

御相伴 今川上総介氏実(真) 駿河

⑤武田大膳大夫入道晴信 法名徳栄軒信玄

御相伴 朝倉左衛門督義景

⑦北条左京大夫氏政

⑧上杉弾正少弼輝虎 越後長尾のことなり

⑨織田尾張守信長 尾張国 弾正忠に任ず

⑩嶋津陸奥守貴久

⑪(毛利)少輔太郎輝元*27

⑫吉川駿河守(元春)

⑬毛利陸奥守元就

⑭小早川左衛門佐隆景

 

 

今日我々が「戦国大名」と呼ぶ、一国以上を支配しかつ足利将軍家の直臣に当たる者たちを当時は「国人」と称していたようである。

 

彼ら「国人たち」の序列を見ると、③と⑦の親子である氏康と氏政、⑬と⑪の祖父と孫である元就と輝元、さらに⑫の吉川元春や⑭の小早川隆景がいずれも同列だった点や、、この3年前に桶狭間で敗死した今川義元の後を襲った氏真が「相伴衆」に列せられ、勝者である織田信長が列せられていない点は永禄6年前後の政治秩序を垣間見ることができ興味深い。ごく当たり前のことだが、同時代的認識として「信長による天下統一」という趨勢がこの時点で決定的になっていたわけではないのである。可能性としては独立的な地方勢力が並立しながら、ゆるやかな統一体をなすような歴史もありえたわけで、「統一」へまっしぐらに進んでいったというのは「想像の共同体」を至極当然とする今日的な先入観によるものかもしれないのだ。

 

Fig. 肥後国関係図

 

*1:後述するように本文書中の「国人」は「国衆」という学術用語に読み替えた方がよい

*2:城久基

*3:名和顕孝

*4:小代親泰

*5:刎頸を許され

*6:城主たちとともに家族も大坂に住まわせられ

*7:病、心配の種

*8:人質として大坂に連れて行かずに

*9:「在熊本」、成政の在城する熊本に住むように

*10:隈部親永

*11:未詳

*12:手抜かりがない

*13:本領

*14:新恩

*15:「本知」と同じ量だけ、本知新知あわせて二倍

*16:「取りかかる」には「着手する」と「攻めかかる」の意味があり、ここでは「成政が秀吉に断りなく検地に着手した」とも取れるが、「隈部親永を攻撃した」と解した

*17:隈部親泰

*18:肥後国山鹿

*19:並ぶ、そろって

*20:隆景

*21:政家

*22:宗茂

*23:

*24:輝元

*25:軍勢

*26:詳しくは黒田基樹『国衆』平凡社新書、2022年などを参照されたい

*27:「少輔太郎輝元」を名乗るのは永禄8年将軍義輝から偏諱を受けたときなので史料の成立年代が永禄8年を遡ることはない