日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年閏5月14日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状(5)

 

 

右之曲事条〻雖有之、其儀をかゑり見させられす、肥後国被仰付候に、月を一ヶ月共不相立、国ニ乱をいてかし*1候儀、(闕字)殿下迄被失御面目候間、御糺明なしにも、むつのかミ*2腹をきらせらるへきと被思召候へ共、人の申成も有之かと被思召、浅野弾正*3・生駒雅楽*4・蜂須賀阿波守*5・戸田民部少輔*6・福島左衛門大夫*7・加藤主計頭*8・森壱岐守*9・黒田勘解由*10・小西摂津守*11被仰付、右之者共人数二三万召連、肥後国へ為上使被遣、くまもとニ有之陸奥守をハ曲事ニ被思召候間、先八代*12へ被遣、国之者共をハ忠不忠をわけ、悉可刎首由被仰遣候処、又候哉、むつのかミ上使二も不相構、大坂へ越候間、如一書条〻曲事者候条、尼崎*13ニ追籠、番衆を被付置、つくし*14へ被遣候上使帰次第、各国之者共成敗之仕様をも被聞召、其上にて陸奥守をハ国をはらハせられ候歟*15、又者腹をきらせ候歟、二ヶ条に一ヶ条可被仰付と被思召候処、肥後事ハ不及申、九州悉相静、国人千余刎首、其内ニ大将分百計大坂へもたせ上候、然者喧嘩*16のあい手国〻者共刎首、むつのかみあいたすけさせられ候へ共、殿下御紛かと国〻のもの共存候へ者*17、如何被思召候条、不便なから後*18五月十四日、陸奥守ニ腹をきらせられ候事、

 

(書き下し文)

 

右の曲事の条〻これあるといえども、その儀を顧みさせられず、肥後国仰せ付けられ候に、月を一ヶ月とも相立たず、国に乱を出でかし候儀、殿下まで御面目を失われ候あいだ、御糺明なしにも、陸奥守腹を切らせらるべきと思し召されそうらえども、人の申すなりもこれあるかと思し召され、浅野弾正・生駒雅楽・蜂須賀阿波守・戸田民部少輔・福島左衛門大夫・加藤主計頭・森壱岐守・黒田勘解由・小西摂津守仰せ付けられ、右の者ども人数二三万召し連れ、肥後国へ上使として遣わされ、隈本にこれある陸奥守をば曲事に思し召され候あいだ、まず八代へ遣わされ、国の者どもをば忠不忠を分け、ことごとく首を刎ねるべき由仰せ遣わされ候ところ、またぞろや、陸奥守上使にも相構わず、大坂へ越し候あいだ、一書条〻のごとく曲事者に候条、尼崎に追い籠め、番衆を付け置かれ、筑紫へ遣わされ候上使帰り次第、各国の者ども成敗の仕り様をも聞し召めされ、その上にて陸奥守をば国を払わせられ候か、または腹を切らせ候か、二ヶ条に一ヶ条仰せ付けらるべしと思し召され候ところ、肥後のことは申すに及ばず、九州こごとく相静まり、国人千余首を刎ね、そのうちにて大将分百ばかり大坂へ持たせ上り候、しからば喧嘩の相手国〻の者ども首を刎ね、陸奥守相助けさせられそうらえども、殿下御紛れかと国〻の者ども存じそうらえば、いかが思し召され候条、不便ながら後五月十四日、陸奥守に腹を切らせられ候こと、

 

(大意)

 

以上述べてきたように成政には落ち度が多くあったが、その点には目をつぶって肥後国を与えてやった。しかし1ヶ月と経たずに一揆を起こすような悪政を行い、関白たるこのわたしの面目も丸つぶれである。したがってことの真偽を確かめるまでもなく成政に死を賜るべきと考えもしたが、人があれこれ言いかねないので浅野長吉・生駒親正・蜂須賀政家・戸田勝隆・福島正則・加藤清正・毛利吉成・黒田孝高・小西行長に2~3万の者をつけ、肥後国へ上使として派遣した。熊本城の成政に落ち度があると思い、まずは八代へ彼らを派遣し、地侍などのうち豊臣政権に忠誠を誓う者とそうでない者に分け、そうでない者は全員頸を刎ねるべきであると命じた。ところがまたもや成政は派遣した上使に無断で上坂してきたので、これまで述べたように何分曲者であるので尼崎に蟄居させ、見張りをつけ、九州へ派遣した上使が帰坂し次第、地元の者たちへの扱いを報告させた上で、肥後国を取り上げるだけにするか、あるいは腹を切らせるかふたつにひとつと考えていた。そうこうしているうち肥後はもとより九州全体の反乱を鎮圧し、国衆たち千人余りの頸を刎ね、そのうち大将クラスもの百ばかりの首を大坂へ運ばせることで決着した。このように戦争の相手の頸を刎ね、成政だけを助けたとなれば、「関白殿下はどうかしてしまったのではないか」と地侍たちも思うだろうから、不憫ではあるが閏5月14日成政に切腹を命じたのだ。

 

 

 

本箇条では秀吉が成政の処遇についてあれこれと思いあぐねていたと述べている。成政に落ち度は多くあるが、それなりに名声もある。しかし肥後の者たちへの苛烈な処罰に対して成政を助命したとすればその正当性が疑われかねず、「不便ながら」と述べている。本心から「不憫」と感じているかはともかく、成政への処罰が正当であることを長々と述べていることと、その切腹当日の日付で発せられている迅速さからこの成政処遇問題は豊臣政権の「公儀」性をうらなう試金石となったようである。

 

*1:出でかし

*2:佐々成政

*3:長吉、のち長政

*4:親正

*5:家政

*6:勝隆

*7:正則

*8:清正

*9:毛利吉成

*10:孝高

*11:行長

*12:肥後国八代郡

*13:摂津国川辺郡

*14:筑紫、九州のこと

*15:「国を払わす」で追放する、知行地を取り上げるの意

*16:戦争

*17:成政を助命すれば、秀吉がおかしくなったとみな思うだろうから

*18: