去月十六日書状并毛利右馬頭*1書中、何も具聞召候、
一、城井面*4儀是又輝元*5人数差遣、成敗可申付旨候、一揆原根之無之事候間*6、手間入間敷と思召候、乍去此式之儀ニ自然卒尓*7之動*8無用候、押詰可置行*9肝要候事、
一、船手*10人数儀申越候、五千三千事者不及申、壱万弐万被差遣候儀安*11候へ共、国之掟如御存分*12ニハ有間敷候間、明春始大和大納言*13御人数十万計茂被遣、国之置目具可被仰付候間、成其意、当年之儀者輝元手柄*14次第可被仰出候、肥後面*15儀、隆景相動人数壱万五千余差越段、無由断旨聞召候、尚追〻可言上候也、
十一月五日*16 (朱印)
黒田勘解由とのへ*17
森壱岐守とのへ*18
(三、2377号)
(書き下し文)
去る月十六日書状ならびに毛利右馬頭書中、いずれもつぶさに聞こし召し候、
一、岩石の儀、右馬頭人数差し越し押し詰むべき段、もっともに思し召し候こと、
一、城井面の儀これまた輝元人数差し遣わし、成敗申し付くべき旨に候、一揆原根のこれなきことに候あいだ、手間入るまじくと思し召し候、さりながらこれしきの儀に自然卒尓の動き無用に候、押し詰め置くべきてだて肝要に候こと、
一、船手人数の儀申し越し候、五千・三千のことは申すに及ばず、壱万・弐万差し遣わされ候儀安くそうらえども、国の掟御存分のごとくにはあるまじく候あいだ、明春大和大納言はじめ御人数十万ばかりも遣わされ、国の置目つぶさに仰せ付けらるべく候あいだ、その意をなし、当年の儀は輝元手柄次第に仰せ出ださるべく候、肥後面の儀、隆景相動き人数壱万五千あまり差し越す段、由断なき旨聞こし召し候、なお追〻言上すべく候なり、
(大意)
11月16日付の書状および毛利輝元からの書状、ともに詳しく読みました。
一、岩石城について輝元が軍勢を差しむけ追詰めたとのこと、実にめでたいことです。
一、城井谷についてもこれまた輝元が軍勢を派遣し、退治してやるとのことです。一揆の連中は根なし草ですので、攻め落すのにそれほど手間取ることはないでしょう。とはいうものの一揆程度のことでもしも軽率な行動を取ることなど無用なことです。籠城させておくのが重要です。
一、こちらから派兵する水軍人数について依頼がありました。5千・3千は言うに及ばず、1万・2万派遣することも容易いことですが、国の掟は私の思うようにいかないので、年明けに秀長をはじめとする軍勢数10万ほど派遣し、国の掟を詳細に命じるつもりですので、それを念頭に、当年は輝元の技量にしたがって国の掟を命じてください。隈府の隈部親永らは、隆景に軍勢を1万5千あまり派兵するので油断のないように伝えました。なお状況の変化があり次第報告するように。
充所の黒田孝高、毛利吉成はいずれも下図のように豊前国に領地を与えられていた。しかしこの城井氏や岩石城の一揆は肥後南関出陣中の出来事で、隙を突かれた形になる。したがって彼らが豊前へとって返すような「軽挙妄動」に出るかもしれない。これを秀吉は「これしきの儀に自然卒尓の動き無用に候」とたしなめたのが本文書の趣旨である。
Fig. 肥後・豊前状況図
豊前の岩石城および城井谷、そして肥後隈府での一揆を「根のこれなき」と評している。興味深い形容だが、本文書だけではどのような一揆が「根のある/ない」一揆と秀吉がとらえたのかはっきりしない。業を煮やした秀吉が「一揆原」と「原」呼ばわりしたように、単に口をついて出ただけというケースもありうるので今後の課題としたい。
秀吉は九州仕置について、今年は自分の思い通りにならないから輝元の「手柄次第」つまり輝元に委任すると述べている。この「思うように」=「御存分」とはおそらく「五畿内同前」ということなのだろう。
九州仕置を輝元の「手柄次第」とすることを、秀吉は「国の置目つぶさに仰せ付けられるべく候」(「仰せ付けらる」の主語は秀吉)状況と対比させている。つまり豊臣政権による仕置には、豊臣政権の直接的な仕置と豊臣大名による間接的な仕置の二つのパターンがあったのである。