日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年閏5月15日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状

 

(包紙ウハ書)

「    加藤主計頭とのへ*1   」

 

其方事、万精を入、御用*2ニも可罷立被(闕字)思食付、於肥後国領知方一廉*3被作拝領*4、隈本*5在城儀被(闕字)仰付候条、相守御法度*6旨、諸事可申付*7候、於令油断者可為曲事候、就其陸奥守*8事、以一書*9被(闕字)仰出候ことく、去十四日腹を切させられ候、雖然家中者*10之儀者不苦候間其方小西*11相談、其〻ニ見計、知行念を入遣*12之、為両人可拘置候、猶浅野弾正少弼*13・戸田民部少輔*14可申候也、

    後五月十五日*15(朱印)

        加藤主計頭とのへ

(三、2513号。下線、番号は引用者による)

 

(書き下し文)

 

その方こと、よろず精を入れ、御用にも罷り立つべきと思し食めさるるについて、肥後国において領知方一廉拝領なされ、隈本在城儀仰せ付つけられ候条、御法度の旨を相守り、諸事申し付くべく候、油断せしむるにおいては曲事たるべく候、それについて陸奥守こと、一書をもって仰せ出だされ候ごとく、去る十四日腹を切らさせられ候、しかりといえども家中の者の儀は苦しからず候あいだその方小西相談じ、それぞれに見計らい、知行念を入れこれを遣わし、両人として拘え置くべく候、なお浅野弾正少弼・戸田民部少輔申べく候なり、

 

(大意)

 

そなたは万事に精を入れ、公儀御用にも必ず役に立つだろうから、それに報い肥後において領知について格別の配慮をもって、熊本在城を命じたので、天正14年の法度の趣旨をよく守り、万事にわたって統治しなさい。落ち度などがあれば曲事とみなす。それに関連して成政は、閏5月14日の朱印状で命じたように、去る14日に自害させた。そうではあっても家中のあいだに動揺は広がっていないので、そなたも行長とよく相談して、互いに適切に処理し、知行地の支配を念入りに行い、両人として統治すること。なお詳細は浅野長吉・戸田勝隆が口頭で伝える」ものである。

 

 

天正16年閏5月15日清正に充てて4通*16の朱印状が発給されている。本文書、領知充行状、領知目録に加えて、玉名郡高瀬津200石を蔵入地とし、清正をその代官とする旨の朱印状である。これらは4通で一組なので次回以降も採り上げたい。ただし、これら4通が冒頭の包紙に同封されていたかについてはあきらかでない。

 

本文書の趣旨は清正に、成政亡き後の肥後国を行長とともに統治せよというものである。領地は次回以降触れるようにそれぞれに与えられるが、それぞれが「閉じた領域」を成すのではなく、肥後一国を「両人として拘え置く」ことを命じている。今日的な感覚からは大名領国を排他的な単色に塗りつぶしたくなるが、必ずしもそう単純ではなさそうである。それは下線部②に「その方・小西相談じ」とあることにもよく示されている。

 

下線部①には「しかりといえども家中の者の儀は苦しからず」とある。「しかりといえども」は逆接を意味するので「成政を自害させたけれども」ということになり、つづいて「家中の者の儀は苦しからず」とあるので、「成政を自害させたが家中のあいだに動揺はなく」という意味になる。わざわざこう記すのは成政の処遇が与える豊臣家臣団への悪影響を、秀吉自身が十分予想していたからであろう。閏5月14日付の成政弾劾状がかなり長文であったことを考えればそれも頷ける。そういう意味で肥後国人一揆の戦後処理は豊臣政権にとって重要な試金石のひとつだったのである。

 

*1:清正

*2:秀吉への務め

*3:大いに

*4:「配慮」の意か

*5:熊本

*6:天正14年1月19日朱印状、1841~1845号

*7:統治すること

*8:佐々成政

*9:閏5月14日付佐々成政弾劾状

*10:ここでは豊臣直臣=大名らのこと

*11:行長

*12:「遣わす」は現在では「派遣する」意味で使われることが多いが、本来は「上位者から命じられたことを行う」という意味だった。なお「遣」で「~しむ」、「~せしむ」という読みもある

*13:長吉

*14:勝隆

*15:天正16年、J暦1588年6月28日、G暦1588年7月8日

*16:うち1通は写のみ