日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

慶長3年1月10日上杉景勝宛豊臣秀吉朱印状 奉公人・侍・百姓

武家、奉公人と百姓の関係を端的に物語る史料がある。越後から米沢へ転封された上杉景勝宛の、米沢に連れて行くべき者連れて行ってはならない者を秀吉が景勝に明示した朱印状である。

 

 

 

 

今度会津国替ニ付其方家中侍之事者不及申、中間・小者ニ至る迄、奉公人たるもの一人も不残可召連候自然不罷越族於在之者、速可被加成敗候、但当時*1田畠を相拘、年貢令沙汰、検地帳面之百性ニ相究ものハ一切召連間敷候也、

  正月十日*2 (朱印)

    羽柴越後中納言とのへ*3

(七、5707号)

 

(書き下し文)

 

このたび会津国替について、その方家中・侍のことは申すに及ばず、中間・小者にいたるまで、奉公人たるもの一人も残さず召し連つるべく候自然罷り越さざる族これあるにおいては、すみやかに成敗を加うらるべく候、ただし当時田畠を相拘え、年貢沙汰せしめ、検地帳面の百性に相究むる者は一切召し連れまじく候なり

 

(大意)

 

このたび会津へ国替を行うにあたり、そなたの家中は侍はいうまでもなく中間・小者にいたるまで、奉公人である者はひとりも残さず会津へ連れて行くこと万一付いて行かない者がいたならばただちに成敗を加えなさい。ただし現在田畠を所持し、年貢を納め、検地帳に「百姓」として記されている者は一切連れて行ってはならない

 

 

 

「侍」、「中間」、「小者」といった「奉公人」はひとりも残さず連れて行け(①)、ただし検地帳に百姓として記されている者は連れて行ってはならない(③)という命令である。現実には奉公人と百姓は郷村に住んでおり截然と区別しがたい存在であるが、検地帳に名請けされ年貢を納めている者はたとえ奉公勤めをしていても連れ去ることはならないという基準を示したものといえる。

 

ところで②によると、奉公人の中にはついて行きたくないと主張する者の存在が想定されている。奉公人が奉公主に断りもなしに出奔し他家に仕えるということがしばしば見られたからである。「侍」などの奉公人は奉公先を勝手に変えてしまうかなりの「自由人」といえる存在だったのだ。

 

これらをまとめると次のような関係になる。もちろんこれはひとつの図式に過ぎず、時代ごと、時期ごと、史料ごとにその意味するところを確認する必要がある。史料中の文言を見つけて演繹的に解釈することだけは慎みたい。

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つけたり 武士のウソは武芸・武勇?

 

正徳3年(1713)成立の「老人雑話」は明智光秀が次のように述べたと記している。

 

明智日向守が曰わく、仏のウソをば方便と云い、武士のウソをば武略と云う、土民百姓はかはゆき*4ことなりと、名言なり

 

 

武士のウソは「武略」つまり武芸、武勇であるというのだ。実際に光秀が述べたか否かはともかく、17世紀後半まで100年を生きた江村専斎が「名言なり」と賞賛していることは重要である。5代将軍綱吉以後までこうした価値観がある程度支持されていたことを示す好例である。

 

 

 

 

 

*1:現在

*2:慶長3年

*3:上杉景勝

*4:可愛ゆき=不憫である