日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

慶長3年3月14日発智新左衛門尉宛隼人人身質入借米状を読む 追記

以前読んだ人身借米状に見える「隼人」について、佐藤前掲書279頁、註4にしたがい「下級武士か」としたが、武士にしては名字もなければ花押もなんだか稚拙に見える。もう少し考えてみたい。

 

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慶長3年1月10日、秀吉は上杉景勝に国替を命じた。

 

今度会津江国替ニ付而其方家中侍之事者不及申中間小者ニ至る迄
奉公人たるもの一人も不残可召連候自然*1不罷越族於在之者速可
被加成敗候但当時*2田畠を相拘年貢令沙汰*3
地帳面之百姓ニ相究ものハ一切召連間敷候

   正月十日  秀吉朱印*4
     羽柴越後中納言とのへ*5

   

          「上杉家文書」東京大学史料編纂所大日本史料総合データベースより

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1598/17-4-2/2/0022?m=all&s=0022

 

(書き下し文)

今度会津へ国替について、その方家中、侍のことは申すに及ばず、中間・小者にいたるまで、奉公人たるものひとりも残らず召し連れべく候、自然まかり越さざるやからこれあるにおいては、速やかに成敗を加えらるべく候、ただし当時田畠をあい拘え、年貢沙汰せしめ、検地帳面の百姓にあいきわむるものは一切召し連れまじく候也、

 

(大意)

このたびの会津への国替えにつき、その方の家臣、侍はいうまでもなく中間・小者にいたるまで、奉公人の身分にある者はひとりも残すことなく、全員会津へ連れて行きなさい。万一、越後に残る者がいたならば罪科に処す。ただし、現在田畠を所持し、年貢を納め、検地帳に「百姓」と記載され、「百姓」身分になった者は会津へ連れて行くことは一切ならない。

 

この文書はいわゆる兵農分離と大名の鉢植え化を示す典型とされる。解釈が分かれるのは下線部である。

 

「家中」が武士であることは間違いないが、①「侍」を武士とする解釈と、②武士である「家中」および「侍はいうまでもなく、中間・小者にいたるまでの奉公人」と読む解釈の二通りある。「侍」が戦闘員であるのに対して、中間・小者は陣夫役などをつとめる非戦闘員である。しかし、非戦闘員だからといっても、戦場におもむく以上無事で済むわけではない。

 

 

その解釈は措くとして、「隼人」が「家中」身分の者であったとは考えにくい。

 

徳川幕府は当初、「一季居」と呼ばれる一年季限りの武家奉公人の雇用をしばしば禁じていた。

 

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しかし、寛永13年1月19日には現状を追認してしまう*6。これらのことから、当時こうした一年契約の武家奉公人の雇用が優勢だったことがわかる。

 

以上のことから、隼人は、おそらく武士身分でないが、発智氏譜代の奉公人だったのであろう。そうした関係のもと、さらに借財を重ね、その質として妻を奉公人として差し出した。つまり夫婦ともども同じ主人に奉公することになった、と考えられるのである。

 

 

 

*1:万一

*2:「当時」は今、現在の意

*3:年貢を納めている

*4:「秀吉朱印」と書かれているのでこの文書は「写」ということになる

*5:上杉景勝

*6:大日本史料総合データベース寛永13年1月19日条 

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1636/19-4-3/2/0031?m=all&s=0031