其方在所広瀬*1弐ヶ村事、従(闕字)上様*2御時当知行旨、聊不可有相違候、池田*3・稲葉*4両人江も其通申候間、不可有別儀候、若何角申族於在之者、右趣可申届候、恐〻謹言、
天正十一 筑前守
十一月十二日 秀吉(花押)
広瀬兵庫助*5殿
『秀吉文書集』一、837号、268~269頁
(書き下し文)
その方在所広瀬二ヶ村のこと、上様御時より当知行の旨、いささかも相違あるべからず候、池田・稲葉両人へもその通り申し候あいだ、別儀あるべからず候、もしなにかと申すやからこれあらば、右の趣申し届くべく候、恐〻謹言、
(大意)
そなたの知行地である広瀬二ヶ村の件、信長様がお認めになった当知行についてはいささかも相違はありません。その旨恒興・一鉄両名にも伝えているので支障はありません。もし横合いから異議を申し立てる者がいましたら、こちらへ申し伝えてください。謹んで申し上げました。
Fig 美濃国揖斐郡広瀬周辺図
天正11年11月、池田恒興と稲葉一鉄の間で領地をめぐる訴訟が起きた。この書状はその争いに巻き込まれることを恐れた広瀬兵庫助に、信長が当知行を認めているので、問題はない旨書き送ったものである。
信長の死後一年以上経っても「上様」、「御時」と呼び、闕字で敬意を表している点は注意しておきたい。もちろん秀吉が心底そう思っていた、というつもりは毛頭ない。「慇懃無礼」というように、礼儀正しく振る舞っていてもその胸中は知りようがないからである。ただ、信長の権威が織田政権の継承者であろうとした秀吉にとって大いに利用価値があっただろうことだけはたしかである。