日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正11年4月3日斎藤刑部丞宛羽柴秀吉書状

 

越中国瑞泉寺・安養寺*1儀、近年牢籠*2由候、然者此砌一揆等被相催、於忠節*3者、如先々本知*4以下無異儀可申付候条、此旨無由断様可被申越候、尚以随忠義*5、重知行可申付候、恐〻謹言、

                   筑前守

  卯月三日*6              秀吉(花押)

   斎藤刑部丞殿*7     

                       「一、629号、200頁」

(書き下し文)

 

越中国瑞泉寺・安養寺の儀、近年牢籠のよしに候、しからばこの砌一揆など相催され、忠節においては、先々のごとく本知以下異儀なく申し付くべく候条、この旨由断なきよう申し越さるべく候、なおもって忠義にしたがい、重ねて知行申し付くべく候、恐〻謹言、

 

(大意)

 越中国瑞泉寺・安養寺のこと近年籠絡したと聞き及んでいます。それならばこの際一揆などを起こし、こちら側に忠節を尽くすのでしたら本領以下は前々の通りに安堵しますので、くれぐれも油断のないように。さらに戦功に応じて新恩給与いたします。謹んで申し上げました。

 

 

 Fig. 越中国瑞泉寺・安養寺周辺図 

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               『日本歷史地名大系』富山県より作成

瑞泉寺・安養寺はいずれも越中一向一揆の牙城である。秀吉はこれらの勢力を籠絡させることで柴田勝家軍の後方を突き、戦局を有利に運ぼうとした。斎藤刑部丞はもと朝倉義景の臣として浅井氏とともに織田信長軍と戦ったが、のち降伏した。

 

註でも触れたが「忠節」、「忠義」一般が存在するわけではなく、「誰に対する」ものかまで踏み込まないと、歴史的、社会的文脈をどう解釈したかあきらかにならないので議論にならない。しばしばある行為を「義挙」であるとか、「裏切り」であるとか断じる傾向があるがそうした言説は歴史的考察を抛擲したと宣言するに等しい。

 

*1:いずれも真宗の寺院、図参照

*2:操ること、籠絡すること

*3:秀吉に対する「忠節」。忠節一般が存在するわけではない

*4:本領

*5:「忠節」と同様秀吉への「忠義」。忠義一般は存在しない

*6:天正11年

*7:もと朝倉義景家臣のち秀吉麾下。柴田勝家軍の後方攪乱を策し、瑞泉寺・安養寺の一向宗徒に一揆を起こさせた