越中国瑞泉寺・安養寺*1儀、近年牢籠*2由候、然者此砌一揆等被相催、於忠節*3者、如先々本知*4以下無異儀可申付候条、此旨無由断様可被申越候、尚以随忠義*5、重而知行可申付候、恐〻謹言、
筑前守
卯月三日*6 秀吉(花押)
斎藤刑部丞殿*7
「一、629号、200頁」
(書き下し文)
越中国瑞泉寺・安養寺の儀、近年牢籠のよしに候、しからばこの砌一揆など相催され、忠節においては、先々のごとく本知以下異儀なく申し付くべく候条、この旨由断なきよう申し越さるべく候、なおもって忠義にしたがい、重ねて知行申し付くべく候、恐〻謹言、
(大意)
越中国瑞泉寺・安養寺のこと近年籠絡したと聞き及んでいます。それならばこの際一揆などを起こし、こちら側に忠節を尽くすのでしたら本領以下は前々の通りに安堵しますので、くれぐれも油断のないように。さらに戦功に応じて新恩給与いたします。謹んで申し上げました。
Fig. 越中国瑞泉寺・安養寺周辺図
瑞泉寺・安養寺はいずれも越中一向一揆の牙城である。秀吉はこれらの勢力を籠絡させることで柴田勝家軍の後方を突き、戦局を有利に運ぼうとした。斎藤刑部丞はもと朝倉義景の臣として浅井氏とともに織田信長軍と戦ったが、のち降伏した。
註でも触れたが「忠節」、「忠義」一般が存在するわけではなく、「誰に対する」ものかまで踏み込まないと、歴史的、社会的文脈をどう解釈したかあきらかにならないので議論にならない。しばしばある行為を「義挙」であるとか、「裏切り」であるとか断じる傾向があるがそうした言説は歴史的考察を抛擲したと宣言するに等しい。