本能寺の変後、足利義昭が再上洛を果たそうして様々な大名に働きかけていたが、なかでも6月13日付の御内書は有名である。
信長討果上者、入洛之儀、急度御馳走由、対輝元・隆景申遣条、此節弥可抽忠切事肝要、於本意可恩賞、仍肩衣・袴遣之、猶昭光・家孝可申候也、
六月十三日 (義昭花押)
乃美兵部丞とのへ
(書き下し文)
信長討ち果つる上は入洛の儀、きっと御馳走のよし、輝元・隆景に対し申し遣わすの条、この節いよいよ忠節をぬくんずべきこと肝要、本意においては恩賞すべし、よって肩衣・袴これを遣わし、なお昭光・家孝申すべく候なり、
この冒頭部分を「信長を討ち果たす上は」と解釈するのには違和感を覚える。「対輝元・隆景」が文法通りなのに、「討果」を他動詞と解釈してもよいのだろうか。「信長討ち果つる上は」と自動詞として解釈する方が自然だと思われるのだが、興奮のあまりか、あるいは強調したかったのかで倒置的な表現になってしまったのだろうか。
ちなみに大日本史料の綱文は「足利義昭、織田信長の薨去に乗じ、毛利輝元に頼りて、京都に復帰せんとす」とあり、自動詞と解釈している。
11月2日島津義久宛御内書(同935頁)では
今度織田事、依難遁天命、令自滅候、
(書き下し文)
このたび織田のこと、天命遁れがたきにより、自滅せしめ候、
とある。すでに明智光秀の手によって殺害されたことが明らかなので、6月13日付の文書のように自らが信長を討ち果たしたとはいえず、「天命によって自滅させた」という因果応報の論理を持ち出したのかも知れないが、やはり文法的には乱れがない。
義昭の再上洛への執念と信長への敵愾心はすさまじいものがあるが、「信長を討ち果たす上は」ではなく「信長討ち果つる上は」と読んだ方がよいと思われるだが、いかがなものだろうか。