今回は小早川隆景宛の書状を読んでみたい。ただし長文なので抄出とした。本文書は黒嶋敏氏が、その著書『秀吉の「武威」、信長の「武威」』 *1の冒頭で、口語訳を引用されている*2のでご記憶の方も多いと思う。黒嶋氏の指摘を紹介しておこう。
彼ら*3はそこで巨大城郭も顔負けの大言壮語を口にしているのだった(中略)信長が本能寺の変で命を落としてから一年もたたない天正十一年の時点で、秀吉の出した書状がB*4になる。こちらも賤ヶ岳の戦いを終えたばかり、まだ地方の大名は通交関係にあるだけで、とても「思うがまま」とは言えなかった*5
同氏は「開いた口がふさがらないような大袈裟な武威」としつつも「当時の政治情勢のなかで考えてみると、彼らが志向していたものを解き明かす手がかりにはなるようだ」としてこうした大言壮語を「武威」として重視する。本記事はこの黒嶋氏の指摘に大いに学んでいる。
(前略)
一、隙明候間、筑前守ハ江州坂本*6ニ在之、此中①忠節仕候者ニ者国郡を遣、安堵之思を作候事、
一、来月中旬ニ者、②国分知行分も相済可申候間、此中諸侍骨を折候之間、七月卅日間ハ相休可申候事、
一、③東国者氏政*7、北国ハ景勝*8まて、筑前任覚悟候、毛利右馬頭殿*9秀吉存分次第ニ被成御覚悟候へハ、日本治、頼 朝*10以来これニハ争か可増候哉、能〻御異見専用候、七月前ニ御存分於在之者、不被置御心、可被仰越候、八幡大菩薩*11、秀吉存分候者、弥互可申承候事、
(中略)
一、右之趣、一々*12輝元へ被仰入尤存候、尚御両使口上ニ申渡候、恐〻謹言、
五月十五日*13 秀吉(花押)
小早川左衛門佐殿*14
御返報「秀吉一、705号、224~225頁」(書き下し)
(前略)
一、隙明き候あいだ、筑前守は江州坂本にこれあり、このうち忠節仕り候者には国郡を遣わし、安堵の思いをなし候こと、
一、来月中旬には、国分知行分も相済み申すべく候あいだ、このうち諸侍骨を折り候のあいだ、七月卅日間*15は相休み申すべく候こと、
一、東国は氏政、北国は景勝まで、筑前覚悟に任せ候、毛利右馬頭殿秀吉存分次第に御覚悟なされ候えば、日本治り、頼朝以来これには争うか増すべく候や、よくよく御異見専用に候、七月前に御存分これあるにおいては、御心置かれず、仰せ越さるべく候、八幡大菩薩、秀吉存分候はば*16、いよいよ互いに申し承るべく候こと、
(中略)
一、右の趣、いちいち輝元へ仰せ入れられもっともに存じ候、なお御両使口上に申し渡し候、恐〻謹言、
(大意)
(前略)
一、時間ができたので、私は坂本におります。その間軍功のあった者には国なり郡なりを与え、安堵させたいと思います。
一、来月中旬には、国分や知行充行も終えるでしょうから、兵士たちには7月の30日間は休みを与えるつもりです。
一、東国は北条氏政、北国は上杉景勝まで筑前の思うがままとなりました。輝元殿が秀吉の臣下に加われば、日本が治まり、鎌倉幕府以来に比肩するか、凌ぐやもしれません。よくよくお考えください。ご意見がございましたなら、心置きなく7月前にお越し下さい。秀吉にできることならきっとお話をうかがいます。
(中略)
一、右の箇条について、事細かに輝元へ申し入れられたこと実に満足しています。詳しくはふたりの使者が口上にて申し渡します。
最後の一つ書きを見ると「輝元」と呼び捨てになっており、また上位者が下位者に命じることを意味する「申し渡す」が用いられており、秀吉の自信の程がうかがわれる。
以前、秀吉が毛利輝元にあてて、東は津軽合浦外の浜まで支配している旨記した文書を書き送っていると紹介したが、その虚言ぶりは本書状においても遺憾なく発揮されている。
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ところで、秀吉はこの時点でいまだ織田信雄の臣下である。これまでにも何度か言及したように、織田信雄が秀吉の家臣前田玄以を京都奉行職に任じるにはこの6日後である(下表の15参照)。
信雄が秀吉と袂を分かつのは翌天正12年3月のこと(上表32、33)であり、柴田勝家を排斥したとはいえ、この時点で秀吉は織田政権(三法師ー信雄)を支える「宿老」の有力なひとりにすぎない。しかし下線部①、②によれば「国郡」単位での知行充行や「国分」を秀吉が行っていると小早川隆景に伝えており、下線部③の「頼朝以来」の偉業であると自画自賛する部分と合わせて、自身が天下人であるかのように振る舞っているとしか読めない。