義昭*1御上事、委細安国寺*2申聞候間、上船之儀、馳走肝要候、猶黒田勘解由*3可申候也、
五月三日*4(朱印)
吉川治部少輔とのへ*5
(三、2174号)
(書き下し文)義昭お上りのこと、委細安国寺申し聞け候あいだ、上船の儀、馳走肝要に候、猶黒田勘解由申すべく候なり、(大意)義昭様御上洛の件、詳しく恵瓊に申し含めましたので、乗船についてしっかり手配することが重要です。なお孝高が口頭にて申します。
同文の朱印状が同日小早川隆景宛に発せられている*6。
さて足利義昭であるが、秀吉と島津軍の調停に一役買っている*7。
Table.1 足利義昭による秀吉・島津間の調停
この年の3月12日、備中赤坂まで足利義昭が秀吉にまみえるため出向いたらしい。この間の行動を図示すると下記のようになる。
Fig. 備中中山から備後赤坂までの行軍
「九州御動座記」では義昭は「公方様」として登場する。念のため義昭、織田信長、秀吉の官位を掲げておく。
Table.2 足利義昭・織田信長・豊臣秀吉官位年表
織田信長の場合、加齢にしたがい上昇の度合いが鈍化する鉄道料金遠距離逓減型で、一方の秀吉は加齢にしたがい上昇の速度が加速する逓増型である。両者の中間に位置する足利義昭は抜群の安定度を誇っており、彼こそ「動かざること山の如し」と呼ぶにふさわしい。