日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年5月3日吉川元長宛豊臣秀吉朱印状

 

義昭*1御上事、委細安国寺*2申聞候間、上船之儀、馳走肝要候、猶黒田勘解由*3可申候也、

   五月三日*4(朱印)

     吉川治部少輔とのへ*5

(三、2174号)

(書き下し文)
 
義昭お上りのこと、委細安国寺申し聞け候あいだ、上船の儀、馳走肝要に候、猶黒田勘解由申すべく候なり、
 
(大意)
 
義昭様御上洛の件、詳しく恵瓊に申し含めましたので、乗船についてしっかり手配することが重要です。なお孝高が口頭にて申します。
 
 
 
同文の朱印状が同日小早川隆景宛に発せられている*6。 
 
さて足利義昭であるが、秀吉と島津軍の調停に一役買っている*7
 
Table.1 足利義昭による秀吉・島津間の調停

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この年の3月12日、備中赤坂まで足利義昭が秀吉にまみえるため出向いたらしい。この間の行動を図示すると下記のようになる。

 

Fig. 備中中山から備後赤坂までの行軍

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                   『日本歴史地名大系 岡山県』より作成

「九州御動座記」では義昭は「公方様」として登場する。念のため義昭、織田信長、秀吉の官位を掲げておく。

 

 Table.2 足利義昭・織田信長・豊臣秀吉官位年表

 

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織田信長の場合、加齢にしたがい上昇の度合いが鈍化する鉄道料金遠距離逓減型で、一方の秀吉は加齢にしたがい上昇の速度が加速する逓増型である。両者の中間に位置する足利義昭は抜群の安定度を誇っており、彼こそ「動かざること山の如し」と呼ぶにふさわしい。

 

 

*1:足利

*2:恵瓊

*3:孝高

*4:天正15年

*5:元長

*6:2175号

*7:下表参照