書状披見候、其許之様子申越趣聞召候、然而北条事、何様ニも可任上意*1之旨、種〻懇望仕候之間、御赦免候、則為礼儀、今度差上北条美濃守*2罷上候、其付而八州*3之事、頓而*4被差下御上使*5、面〻分領堺目等可被仰付候、猶上洛之刻、可被仰聞候、委細石田治部少輔*6可申候也、
九月二日*7 (朱印)
三楽斎*8
梶原源太*9
とのへ
(三、2603号)
(書き下し文)
書状披見候、そこもとの様子申し越す趣き聞し召し候、しかれども北条のこと、何様にも上意の旨に任すべく、種々懇望仕り候のあいだ、御赦免候、すなわち礼儀として、このたび差し上ぐる北条美濃守罷り上り候、それについて八州のこと、やがて御上使差し下され、面々分領堺目など仰せ付けらるべく候、なお上洛のきざみ、仰せ聞けらるべく候、委細石田治部少輔申すべく候なり、
(大意)
手紙拝読した。そちらの状況について書き送ってきた趣旨については承知した。北条氏については万事「上意」に委ねるべく様々に「懇望」してきたので「赦免」することとする。すなわち臣下の礼として北条氏規が上洛し、関八州についてすぐに使者を遣わし、それぞれの分国の境目を命じるはずである。なお上洛の折よくよく言い含めるものである。詳しくは石田三成が申す。
天正16年関東および奥州では軍事的緊張が高まっていた。特に北条氏領国内では「天下の御弓箭」、すなわち「天下」*10存亡の危機にあるとして領民を動員している。一触即発の状況にあったのだ。
本文書は佐竹北義斯・同東義久宛(2602号)、多賀谷重経・水谷勝俊宛(2604号)に同日同文の文書が発給されており、下線部「面々分領堺目など仰せ付けらるべく候」とあるように東国の国郡境目相論、すなわち北条氏と反北条側諸氏との調停を意図したものである。
これらをまとめたのが下表と下図である。
Table. 2603号文書関係人物一覧
Fig. 2603号関係地名
本文書に見られる「上意」、「懇望」、「赦免」は対等の関係にある者同士が交わす和平とはほど遠く、北条氏が秀吉に臣従するかたちで、すなわち垂直的関係において取り結んだ関係であることを示している。なお北条氏側が秀吉側の意図するように和議を結ぼうとしたかはわからない。
「家忠日記」同年閏5月10日条に「相州(北条氏)と上方(秀吉)御無事調い候由に候」と見える。このとき「御取持」=仲介したのは徳川家康である。反北条氏の立場を鮮明にしていた佐竹氏麾下の者たちにも同様に和議を促したのが本文書である。
さてこの和議について奈良興福寺塔頭の多聞院英俊は次のように記している*11。
京都へは東国より相州氏直*12の伯父美濃の守*13上洛し、東国ことごとく和談相調いおわんぬと云〻、奇特*14不思儀*15のことなり、天下一等*16満足充ち満ち、天道いかが、
(大意)
京都へ東国から北条氏直の伯父である氏規が上洛し、東国の「和談」が成立したという。霊験あらたかなことで世間は喜びに満ちあふれており、神仏のご加護は言葉に尽くせない。。
京都や奈良の人々が秀吉と北条氏の間で「和談」が成立したことで胸をなで下ろした様子がうかがえる。それだけこの緊張が大きなもので、かつ人々の日常を脅かしかねないものだったわけである。翌々年両者は干戈を交えることになるが、単に豊臣政権と東国大名のみに関わる問題ではなかったのだ。
むろんこの時期傭兵として稼ぎに出る者も多くいたので、和議によってその機会を失われた百姓も多くいたことだろう。
ちなみに9月13日付で施薬院全宗が伊達政宗に宛てて次のように書き送っている。
(前略)京都いよいよ静謐に属し、九州諸大名在洛候、東国の儀も無事罷り成り、北條美濃守このたび上洛せられ、御礼申し上げられ候、しかれば貴殿の儀、そこもと御隙も空きそうらわば、ふと*17御上洛、待ち奉り候、(後略)
九州諸大名は在京し、東国とも「無事」が成立した。ついては貴殿も「ふと」、すなわち「偶然をよそおい」上洛されてはいかがでしょう、とさりげなく秀吉に臣従するよう仄めかしている。着々と「東方拡大」を進めていたのである。