五月十五日之御状、当月六日参着、致拝見候、仍北条氏直至于其国*1相動付而、義重*2被乗向御対陣之由候、可被属*3御存分事、不可有程候、将又尾濃*4其外悉任存分候之条、可御心安候、然者休息人馬候、来八月ニ北国西国人数相催、遠三両国*5迄押詰*6、可相働*7与存、去月廿八日大坂へ納馬候、併境目置目等*8為可申付、拙夫*9儀者明日江州坂本へ罷立候、何様重而従是以使札*10可申入候之間、不能詳候*11、恐〻謹言、
七月八日*12 秀吉(花押)梶原源太殿*13御返報『秀吉文書集二』1138号、57頁
(書き下し文)
五月十五日の御状、当月六日参着、拝見いたし候、よって北条氏直その国にいたり相動くについて、義重乗り向かわれ御対陣のよしに候、御存分に属さるべきこと、ほどあるべからず候、はたまた尾濃そのほかことごとく存分に任せ候の条、御心安んずべく候、しからば人馬を休息し候、来たる八月に北国・西国人数相催し、遠三両国まで押し詰め、相働くべきと存じ、去る月廿八日大坂へ馬を納め候、あわせて境目置目など申し付くべきため、拙夫儀は明日江州坂本へ罷り立ち候、なにようかさねてこれより使札をもって申し入るべく候のあいだ、詳らかにあたわず候、恐〻謹言、
(大意)
五月十五日付のお手紙、当月六日に到着しましたので拝読しました。北条氏直が常陸国に軍勢を出したことに対して義重が対陣されたのこと。御存分に打ち負かすのもまもなくのことでしょう。また尾張や美濃もことごとく平定しましたのでご安心ください。そうしたわけで人馬を休ませ、来月には北国・西国からも軍勢を呼び寄せ、遠江、三河まで遠征し戦うべきと思い、先月二十八日に大坂へ一度陣を引きました。また境目の仕置を行うため、私は明日近江坂本ヘ出発する予定です。今後は使者に申し伝えますので詳細は割愛します。謹んで申し上げました。
梶原政景は書状を出したあと返事を待つあいだの6月13日、佐竹側から北条側へ寝返っており*14、5月15日付の書状の到着が7月6日というのも気になる。政景はその後また佐竹側に寝返ったので、秀吉は頃合いを見計らったのかもしれない。
戦況は秀吉側に著しく有利であると書かれているが、実情はそうではなかった。
北条氏と佐竹氏が激突したのは下野の沼尻である。
Fig. 沼尻合戦周辺図
なお4年後の天正16年9月2日、太田資正*15・梶原政景宛朱印状*16において「面々分領堺目など仰せ付けらるべく候」と北条氏直との国分を秀吉が行う旨述べている*17。
この年の8月、小田原城主北条氏直の叔父にあたる氏規が上洛している。その様子を「多聞院日記」は次のように伝える。
京都へは東国より相州氏直の伯父*18美濃ノ守*19上洛し、東国ことごとく和談相調いおわんぬとうんぬん、奇特不思儀*20のことなり、天下一等*21満足に充満*22、
『多聞院日記』天正16年8月18日条
東国の「和談」がすべて調い、「天下」の者はみな満足げであったと。この「和談」の具体的な内容が上述の「面々分領堺目など仰せ付けらるべく候」である。
しかしこの東国の和平は翌々年には全面武力衝突というかたちで頓挫することになる。とんだぬか喜びをさせられたわけである。
*1:常陸国
*2:佐竹
*3:支配下に置く
*4:尾張国、美濃国
*5:遠江、三河両国
*6:追い込む
*7:戦う
*8:三河以東の国分のことか
*9:秀吉、自身をへりくだっていう語
*10:使者に持たせる書状
*11:詳しくは申し上げられません
*12:天正12年
*13:政景、常陸国佐竹義重に属す
*14:『大日本史料』天正12年6月13日条、第11編7巻、432頁以下 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1107/0432?m=all&s=0432&n=20
*15:武蔵岩付城主→常陸片野城主。資正は政景の父
*16:『秀吉文書集三』2603号、272頁
*17:同日付同文の佐竹義斯・佐竹義久宛および多賀谷重経・水谷勝俊宛の朱印状も発給されている。同上2602号および2604号
*18:伊勢貞丈は「貞丈雑記」にて「伯」は「あに」と読み「叔」を「おとうと」と読むので、伯父・叔父(伯母・叔母も同様)は長幼によると述べ、父方を「伯父・伯母」、母方を「叔父・叔母」とするのは誤りとする。一方本居宣長は「古事記伝」において父親の兄を「伯父」、弟を「叔父」と書き分けるのは中国の風習であり我が国のものではないと述べている。なお氏規の母親は氏直の父方の実祖母である
*19:氏規
*20:比類のないほど珍しく不思議な、奇蹟のような
*21:統
*22:ミチミチ