しばらく開店休業状態が続いたが、リハビリも兼ねて再開する。
一①、此方*1ゟ相動*2人数・家康*3もの*4ニも、城〻にて兵粮*5相渡由尤候、弥其分ニ仕*6、何方もはか行*7候様ニ可仕候事、
一②、御判*8被下候在〻*9、家〻不焼所ハ、為御判銭*10兵粮可致進上旨、可申付候、其所より一廉*11在之所ハ、其ニ随イ可申付候事、
一③、右之通相済候て、皆共*12も隙明*13候ハヽ、急〻*14可申越候、何も不可有油断候也、
五月十二日*15 朱印
浅野弾正少弼とのへ*16
木村常陸介とのへ
(四、3205号)
(書き下し文)
一①、此方より相はたらく人数・家康者にも、城々にて兵粮相渡す由もっともに候、いよいよその分に仕り、いず方も捗行き候ように仕るべく候こと、
一②、御判下され候在々、家々焼かざるところは、御判銭として兵粮進上致すべき旨、申し付くべく候、その所より一廉これある所は、それに随い申し付くべく候こと、
一③、右の通り相済まし候て、皆共も隙明けそうらわば、急々申し越すべく候、いずれも油断あるべからず候なり、
(大意)
(省略)
①についてはまず、豊臣軍と家康軍が兵粮を分配することを秀吉が「もっともな」ことだと述べている点が注目される。兵粮の確保が家康と別立てであった、つまり軍隊としては秀吉軍とは独立した指揮系統にあったわけである。秀吉と家康の関係を考える上で重要なヒントになる。
またその兵粮は自分たちで運んできた、もしくは戦地で購入したというより落城した「城〻」に残された兵粮を分け合っているといった風情である。鹵獲品(booty)というよりは戦利品(trophy。トロフィーワイフの「トロフィー」にはこうした意味合いが漂う)で掠奪の延長と言える。兵粮がこうした分捕り品だった点も重要であるが、ここでは決定的と言えるわけではないので指摘するだけに留めておく。
②については確認できる秀吉発給文書に限っても161通に及んでおり、浅野長吉や木村常陸介発給文書も加えると200通を越す。そうした郷村のうち「焼かざるところ」からは「御判銭」として兵粮を差し出すように命じろ。また一層実りの多い郷村があればそれに応じて余計に納入させよ、と命じている。各郷村に発せられた禁制の「放火の禁止」が如何に守られていなかったか、物語ってあまりある。結果的に「保護した」郷村からは御判銭の代わりとして兵粮を徴集するという空手形もいいところである。
③はそうした戦後処理が済み手隙時間が出来たら急ぎ報告せよと結んでいる。
2025/7/5 追記
②の「家々焼かざるところ」は「家々焼けざるところ」と読むべきだろう。いずれにしろ秀吉の制札が空手形に過ぎずなんら「郷村の保護」に寄与したとは思えない。結果的に焼失を免れた郷村から後払い的に制札銭を請求していて、制札というものの本質を表しているといえる。これが前払いとなると実際に郷村を保護する兵力を割かなければいけない。
*1:豊臣軍
*2:はたらく=軍事行動に出る
*3:徳川
*4:「の者」で家中、「窪田十郎左衛門の者」は奴隷的な存在の下人、所従、名子、被官など
*5:戦利品=トロフィーか
*6:そのように配分して
*7:捗が行く=捗る
*8:秀吉の朱印状=制札・禁制のこと
*9:郷村
*10:百姓たちが戦国大名などへ禁制を発給して貰うため納める銭。数貫文=数千文単位にのぼる
*11:ひとかど。相当の量、経済力がある郷村
*12:豊臣軍の主な将
*13:隙は手隙時間などのように暇、手の空いた時間
*14:きゅうきゅう。可及的速やかに。「急急如律令」=「きゅうきゅうにょりつりょう」は「この旨を心得て、急々に、律令のごとくに行なえ」という意味
*15:天正18年。グレゴリオ暦1590年6月13日、ユリウス暦同年同月3日
*16:長吉