日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年4月29日真田昌幸宛豊臣秀吉朱印状

 

 

(包紙ウハ書)

「         真田安房守*1とのへ」

 

 

去廿四日書状、今日廿九披見候、箕輪城*2之儀羽賀信濃守*3追出、保科*4居残、城相渡ニ付て、羽柴孫四郎*5同前ニ請取之由尤候、小田原之儀被取籠*6、干殺*7被仰付故、隣国城〻命之儀御侘言*8申上候、被成御助候城ハ、兵粮・鉄炮玉薬、其外武具悉城ニ相付渡し*9候、家財ハ少〻城主ニも被下候間、成其意、箕輪之儀も玉薬、其外武具・兵粮以下少茂不相違様ニ、入念可請取置候次在〻所〻土民百性共還住之儀被仰出候、其許堅可申触候、東国習ニ女童部をとらへ売買仕族候者、後日成共被聞召付次第、可被加御成敗候、若捕之置輩在之*10者、早〻本在所へ可返置候、万端不可有由断候、猶以此節之儀候条、辛労仕、弥可抽粉骨儀肝要候、委曲石田治部少輔可申候也、

 

   卯月廿九日*11 (朱印)

 

       真田安房守とのへ

 

(四、3044号)

 

 

(書き下し文)

 

去る廿四日の書状、今日廿九披見候、箕輪城の儀羽賀信濃守追い出し、保科居残り、城相渡すについて、羽柴孫四郎同前に請け取るの由もっともに候、小田原の儀取り籠められ、干殺仰せ付けらるる故、隣国城〻命の儀御侘言申し上げ候、お助けなされ候城は、兵粮・鉄炮玉薬、そのほか武具ことごとく城に相付け渡し候、家財は少〻城主にも下され候あいだ、その意をなし、箕輪の儀も玉薬、そのほか武具・兵粮以下少しも相違わざるように、入念請け取り置くべく候次に在〻所〻土民百性ども還住の儀仰せ出だされ候、そこもと堅く申し触るるべく候、東国の習いに女・童部を捕らえて売買仕る族そうらわば、後日なるとも聞し召し付けられ次第、御成敗を加えらるべく候、もしこれを捕え置く輩これあらば、早〻本在所へ返し置くべく候、万端由断あるべからず候、なおもって此節の儀候条、辛労仕り、いよいよ粉骨抽くべき儀肝要に候、委曲石田治部少輔申すべく候也、

 

(大意)

 

去る24日付の書状、今日29日に披見した。箕輪城の件では羽賀信濃守を追い出し、保科正直が一時的に城を預り、城の受け取りについては前田利長が同様に請け取ったとのこともっともなことである。小田原は城を包囲し、干殺しにせよと命じたので、隣国の諸城も助命を嘆願してきた。助命した城は、兵粮・鉄炮弾薬、そのほか武具すべてを城に引き継ぎ、家財は多少なりとも城主にくれてやるので、そのようにし、箕輪城も弾薬、そのほかの武具・兵粮にいたるまで少しも相違せぬよう、念を入れて城の請け取りを行うこと次に在〻所〻土民百性たちに還住するよう命じたので、そなたもしっかりと周知させるように。東国の風習である、女・童部を捕らえて売買する者がいたならば、後日に聞きつけ次第、成敗を加えるものである。もし売買する対象の女童を捕えている者がいたなら、早々にもとの在所へ還住させること。とにかく油断禁物である。なおこの時節のことなので、全力で事に当たり、ますます骨を折ることが大切である。くわしくは石田三成が口頭で申す。

 

 

 

図1. 上野国箕輪城周辺図

 

                  『日本歷史地名大系 群馬県』より作成

 

本文書の①では武装解除の手続きについて説明している。降伏する意思を示した側が、武装解除して城をあけわたすまで「休戦」状態が続き、城請け取りを済ませてはじめて戦争が終わる。徳川幕府も大名改易の際に城請け取りの大名を派遣するが、改易された大名側が「城を枕に討ち死に」覚悟で抵抗してくるおそれがある。したがって城請け取りの役目を仰せ遣った大名は当然石高に応じた軍勢を従えてくる。浅野内匠頭切腹後の赤穂城の受け渡しもそうした潜在的な軍事衝突を孕んだものであった。

 

いくら「乱世」とはいえ、さすがに殲滅戦が繰り広げられたわけではない。ある程度の限定は存在した。殲滅戦は「最終的解決」や独ソ戦、「エスニッククレンジング」に見られるようにむしろ近現代的産物とさえ言える。

 

 

②の「東国の習い」という表現については以前も述べたように、事実認識としては正しくないし、秀吉もそれは知っていたはず。ただことさら「東国の習い」を強調することで、異なる文化圏である東日本をも豊臣政権が支配下に置くという声明だった可能性はある

 

また「女童部」は債務奴隷や戦争奴隷*12の双方を含んでいるだろうが、「早〻本在所へ返し置くべく候」とあるように「とりあえずもとの在所へ還住させる」ことに重点が置かれている

 

したがって、真幸や景勝のみに宛てた文書をもって、豊臣政権が人身売買を禁じたとするには不十分ではないだろうか。

 

 

 

2025/4/28 補足

 

4月10日秀吉は秀長にあててこう書き記している。

 

 

これ以後*13はたとい北条の刎ね首持ち来り候とも、一人も助けられまじく候と思し召され候、

 

(八、6119号)

 

 

今後はたとえ氏直の首を持参しようとも一切助命はしないと。病に伏せっている秀長へのリップサービスなのか、本心なのかはっきりしないが、こういったプランもあったということだろう。

 

 

 

*1:昌幸

*2:上野国群馬郡、下図参照

*3:未詳

*4:正直。信濃国伊那郡の国衆。天正10年甲斐武田氏滅亡後、家康に臣従した

*5:前田利長

*6:包囲する。「被」という尊敬の対象は秀吉。以下同じ

*7:餓死させること

*8:降伏するという申し出。抗議する意味もあるので「詫びる」ニュアンスは特にない

*9:引き継ぐ

*10:売買される「女童部」を指す

*11:天正18年4月、グレゴリオ暦1590年6月1日、ユリウス暦同年5月22日

*12:18世紀の江戸でも10歳前後の女子が日中に誘拐され、江戸府内の別の町で使役される事件が起きているくらいである

*13:下野国都賀郡皆川城主の皆川広照が降伏したのち