急度染筆候、①其方者共*1、於熊本*2其外所〻、乱妨狼藉喧嘩仕、猥由聞召候、相背御法度儀候間、余人之儀候者*3、則可被成御成敗候へ共、②其方之儀候間*4、先被仰聞候、下〻堅可申付候、此上不相届候者、誰〻ニよらす打捨ニ可仕由被仰出候、可成其意候、けに/\*5申付之儀不成候ハヽ、かたより*6候て御跡*7ニ可罷越候、猶戸田民部少輔*8可申候也、
卯月十五日*9(朱印)
龍造寺民部大夫[ ]*10
(三、2156号)
(書き下し文)
きっと染筆候、①そのほうの者ども、熊本・そのほかの所〻において、乱妨狼藉喧嘩仕り、みだりのよし聞し召し候、御法度にあい背く儀に候あいだ、余人の儀にそうらわば、すなわち御成敗なさるべくそうらえども、②そのほうの儀に候あいだ、まず仰せ聞きけられ候、下〻堅く申し付くべく候、このうえ相届かずそうらわば、誰〻によらず打ち捨てに仕るべきよし仰せ出だされ候、その意をなすべく候、げにげに申し付けの儀ならずそうらわば、偏り候て御跡に罷り越すべく候、なお戸田民部少輔申すべく候なり、
(大意)
一筆したためました。そなたの家臣どもが、熊本やその他の郷村において略奪行為や刃傷沙汰を起こし、無政府状態になっていると聞いている。先に出した禁制に背く行為なので、他の者であるならば即刻処罰するところであるが、他ならぬそなたのことであるので、まずはよく言い聞かせ、直臣・陪臣問わずきびしく申し付けなさい。今後不届きなことがあれば、誰であろうと切り捨てにすると仰せになった。その旨心得なさい。もしこれに背くことがあればこちらに参り、秀吉の沙汰を仰ぎなさい。なお詳細は戸田勝隆が申し述べます。
Fig.1 秀吉行軍 筑前秋月から筑後高良まで
Fig.2 秀吉行軍2 筑後高良から肥後隈本まで
この日、秀吉は龍造寺隆信の母で、政家の祖母にあたる慶誾尼(ケイギンニ)に宛てても朱印状を発している*11。
下線部①によれば、政家の家臣たちが*12秀吉の発給する郷村や寺社への安全を保障する禁制に背いたことが秀吉の耳に入ったようだ。これまで禁制が発給されたあと実際にどうだったのか語る史料に恵まれなかったので、現実にこうした行為が行われた場合の秀吉の対応はわからずじまいだった。しかし本文書はこれに対するひとつの答を提供する貴重な文書である。①の後半で「他の者なら問答無用で斬罪に処すところだが」と述べるが、つづく②で「ほかならぬそなたのことなので口頭での注意で済ませた」と特別扱いした旨記されている。
言い換えれば、秀吉の発給する乱妨狼藉を禁ずる禁制は必ずしも有効ではなかったことになる。しかも秀吉は相手により処罰を変えてもいる。豊臣政権が秀吉による恣意的な権力体であったことを示す事件ともいえる。