態染筆候、
(中略)
①一、先度之以後、肥後熊本*1事、命を被助、城を請取候、彼地国のかなめ所ニ候間、一両日令逗留、留主居等被仰付宇土*2・熊庄*3之城へ取懸候処、宇土令降参、城相渡候ニ付て、命を助置候、熊庄可成敗と被思召候中に、城を明北*4散候処、百姓おこり*5少〻うちころして首を上候、其外小城之儀不知数、廿ヶ所余明北候事、
②一、八代*6を専ニ敵相拘*7、新納武蔵守*8・伊集院肥前*9・町田出羽*10・島津右馬頭*11・新納右衛門佐*12・稲富新介*13・桂神儀*14介・伊藤右衛門佐*15相籠候間、右之八代にて彼凶徒等可被刎首と思召、宇土城之御とまりより、彼八代へ五十町道*16七里*17之処を一騎かけにさせられ候へは、夜中ニ彼八代を大将分者北落候て、国の奴原*18計候間、追取廻、首を可被刎首と被思召候へ共、御覧候へ者奉公人・町人、其外百姓男女にて*19、五万*20も可有候ものをころさせられへき儀不便*21に被思召、又者国に人なく候へは耕作以下如何ニ被思召、被相助、八代に被成御座候事、
(中略)
以上
卯月廿日*22(朱印)
毛利右馬頭とのへ*23
(三、2160号)
(書き下し文)
わざわざ染筆候、
(中略)
①一、先度の以後、肥後熊本のこと、命を助けられ、城を請け取り候、かの地国の要所に候あいだ、一両日逗留せしめ、留主居など仰せ付けられ、宇土・熊庄の城へ取り懸り候ところ、宇土降参せしめ、城相渡し候について、命を助け置き候、熊庄成敗すべきと思し召され候うちに、城を明け北げ散り候ところ、百姓熾り少〻打ち殺して首を上げ候、そのほか小城の儀数を知らず、廿ヶ所余明け北げ候こと、
②一、八代をもっぱらに敵相拘え、新納武蔵守・伊集院肥前・町田出羽・島津右馬頭・新納右衛門佐・稲富新介・桂神儀介・伊藤右衛門佐相籠り候あいだ、右の八代にてかの凶徒など首を刎ねらるべしと思し召し、宇土城のお泊まりより、かの八代へ五十町道七里のところを一騎駆けにさせられそうらえば、夜中にかの八代を大将分は北げ落ち候て、国の奴原ばかり候あいだ、追い取り廻り、首を刎ねらるべしと思し召されそうらえども、ご覧そうらえば奉公人・町人、そのほか百姓男女にて、五万もあるべく候者を殺させられべき儀不便に思し召され、または国に人なくそうらえば耕作以下いかがに思し召され、相助けられ、八代に被成御座なされ候こと、
(中略)
以上
(大意)
一筆したためました。
(中略)
①一、先日、肥後熊本城の城兵の命を助け、城を受け取りました。熊本は肥後国の要所ですので二三日滞在し、留守をしっかりと申し付け、宇土と隈庄を攻撃しました。宇土はすぐに降伏し、城を明け渡したので城兵の命は助けました。隈庄も攻め滅ぼそうと思っていた矢先、重立った者たちは敗走し、残された百姓どもが蜂起してきたので何人かを殺して、首を晒してやりました。その他落とした小さな城は数知れず、二十余ほどでしょうか、みな逃げ去りました。
②一、敵は八代を集中的に守り、新納忠元・伊集院久春・町田久信・島津以久・新納久饒・稲富長辰・桂神祇介・伊藤右衛門佐らが立て籠もっていました。八代で彼らの首を刎ねるべしと考え、宇土の宿所から一騎駆けしたところ、夜陰にまぎれ大将クラスの者たちは逃走し、国の者たちだけが残されていました。追い懸けて首を刎ねるべしとも考えましたが、見てみれば奉公人・町人・そのほか百姓の男女が5万人ほど。連中を殺すのはあまりに不憫であるし、また国に耕す者がいなければ問題なので助け、八代に移りました。
Fig. 肥後国熊本・八代周辺図
下線部①では秀吉軍に対して、隈庄城に籠城した島津氏の家臣が逃亡し、残された百姓たちが蜂起し、成敗されたとある。これがのちの肥後国人一揆につながるかどうかは定かではないが、検地は手加減せよとの方針に影響した可能性はあるだろう。百姓たちが武装蜂起したという点は示唆的である。
下線部②でも八代の古麓城に籠城した名のある者はみな逃走したようだ。残された者が「奉公人・町人・百姓男女」とあるのが目を引く。秀吉軍の攻撃に対して村ぐるみで籠城していた様子がうかがえる。
戦国・織豊期、戦争時百姓たち一般人はどうしていたか、抵抗するか籠城するか、逃散するかといった選択肢しかなかった。戦場では「乱取」と呼ばれる掠奪が日常的に行われており、生け捕りにされれば人身売買の対象となるためである。
*1:肥後国飽田郡熊本城、下図参照
*2:同宇土郡
*3:同益城郡
*4:逃げる
*5:熾る・興る。蜂起する
*6:同八代郡古麓城のこと
*7:維持する、食い止める
*8:忠元、島津氏家臣。以下同じ
*9:久春
*10:久信
*11:以久
*12:久饒
*13:長辰
*14:祇
*15:未詳
*16:「五十町道」は表街道=幹線のような意味らしい
*17:長さの単位としての50町=7里ではなさそうである
*18:「地元の連中」、「島津氏の重立った家臣ではない」の意
*19:16世紀から17世紀にかけて「奉公人・町人・百姓」という用法が見える
*20:このころの日本の人口は1,700万人と推定されている
*21:ふびん
*22:天正15年
*23:輝元