昨日書状、今日申下刻*1到来、江戸城*2請取之由尤候、何之城〻も命を相助り候様にと、急度申度存之由候条、請取之城ニハ留主居を申付置候て、先〻城とも手分*3を仕、早〻可請取之候、松井田城*4落去ニ付而、川越*5・ミのわ*6・前橋*7も相渡候、佐野*8儀も天徳寺*9者ニ相渡候由申来候、越後宰相中将*10・羽柴加賀宰相*11、至于川越可罷出候間、急度入相*12申候様ニ可仕候、何之城〻ニても、兵粮之儀肝要ニ候間、能〻可相改置候、猶様子追〻可言上候也、
卯月廿八日*13 (朱印)
浅野弾正少弼とのへ*14
(四、3042号)
(書き下し文)
昨日書状、今日申の下刻到来、江戸城請け取るの由もっともに候、いずれの城〻も命を相助り候ようにと、きっと申したく存ずるの由候条、請け取りの城には留主居を申し付け置き候て、先〻城とも手分仕り、早々これを請け取るべく候、松井田城落去について、川越・箕輪・前橋も相渡し候、佐野儀も天徳寺の者に相渡し候由申し来たり候、越後宰相中将・羽柴加賀宰相、川越に至り罷り出ずべく候あいだ、きっと入相申し候ように仕るべく候、いずれの城〻にても、兵粮の儀肝要に候あいだ、よくよく相改め置くべく候、なお様子追々言上すべく候也、
(大意)
昨日付の書状、本日申の下刻に到着した。江戸城を請け取ったとのこと、実にもっともなことである。いずれの城も助命を乞うことは間違いないとのことなので、請け取った城には留守居を置き、向かう先々の城とともに軍勢を配置し、早急に城を請け取るように。松井田城落城に続いて、川越・箕輪・厩橋も城を明け渡してきた。佐野唐沢山城も佐野房綱の家中の者に渡すと申し出てきている。上杉景勝・前田利家も川越にいずれ到着するだろうから、川越城をかならず共同利用するようにしなさい。いずれの城においても兵粮の確保は重要であるから、よくよく入念に調達するように。なお状況について逐一報告するように。
図1. 天正18年の関東情勢
本文書は江戸城を請け取った浅野長吉の報告に対する返答である。他の城も助命を乞い開城するだろうという長吉の報告に対して、秀吉は請け取った城に留守居の軍勢を入れ守りを固めるよう命じている。上野の松井田城落城に続き、北条氏領国内の政治的・軍事的拠点である箕輪や厩橋など各城々も降伏を申し出ている状況において、城請取を速やかに済ませ、豊臣大名軍同士が川越城を共用するにとも述べている。軍勢内での喧嘩口論が念頭にあったのだろうか。
浅野長吉はこの翌日、武蔵国足立郡浦和郷および葛西三十三郷のうちの飯塚、猿ヶ俣、小合、金町、柴又の各村に自軍兵士が濫妨狼藉(掠奪)をせぬよう命じた禁制を発している。城請取とともに在地支配の基礎固めも行っていたのだろう。
ところで、これら禁制は憲兵(Military Police)のような軍隊内部の犯罪行為を取り締まる警察機関を設置したわけではない。濫妨狼藉する兵士がいたら百姓たちの手で身柄を拘束し、大名などに差し出せといったような、郷村の自力救済能力を前提としたもので「消極的な安全保障」でしかない。しかも無償ではなく多額の金銭(制札銭)を納めることで発給して貰うものである。それでも被害に遭うことも少なくなく、大名らがその損失を弁済することもなかった。
図2. 浅野長吉禁制発給郷村図
当たり前のことであるが単に戦闘レベルで打ち負かすだけでなく、在地を把握しなければ支配下に入ったことにはならないことに注意すべきである。
なお葛飾郡はもともと隅田川東岸の下総国にのみ存在し、太日川(ふといがわ=現江戸川)の東岸を葛東、西岸を葛西と呼んでいたが、中世後期から葛西を武蔵国葛飾郡と呼ぶようになり、下総国葛飾郡と武蔵国葛飾郡の両国に分かれた。川は自然の境界としてわかりやすい一方で、氾濫や洪水などにより流路を大きく変えることが珍しくなかったため土地の帰属を巡る紛争が絶えなかった。近世の国絵図などを見ると川の中州が二つの郡に塗り分けられている例があるように、土地の帰属はそれほど単純に決められないのである。