日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年10月20日前田玄以・松浦重政・大野光元・一柳直次・山口宗長宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

諸公家・門跡・五山*1其外給人方知行事、三分一可渡申候、京廻知行当納*2何も法印*3相談、免*4以下一所ニ可納置候、就其桂川より東京廻帳分、先々差急相極上可申候、弥々不可有油断候、委細者民部卿法印*5ニ申聞候也、

  十月廿日*6 朱印

  民部卿法印

  松浦弥左衛門尉殿*7

  大野与左衛門尉殿*8

  一柳勘左衛門尉殿*9

  山口次左衛門尉殿*10

「久我家文書」、『秀吉文書集二』1652号、267~268頁
 
(書き下し文)
 
諸公家・門跡・五山そのほか給人方知行のこと、三分の一渡し申すべく候、京廻り知行当納いずれも法印相談じ、免以下一所に納め置くべく候、それについて桂川より東京廻り帳分、まずまず差し急ぎ相極め上げ申すべく候、いよいよ油断あるべらず候、委細は民部卿法印に申し聞け候なり、
 
(大意)
 
公家衆・門跡・寺社その他給人などの知行について「三分の一」を渡しなさい。京都周辺の知行・「当納」いずれも前田玄以と相談し、年貢などを一ヶ所に納めさせなさい。桂川より東側の京都周辺の帳面を、まず第一に仕上げて差し出しなさい。くれぐれも油断のないように。詳しくは玄以に申し含めています。
 
 

 

桂川以東の京都周辺とは以下の斜線部分である。 

Fig.1 桂川より東京廻り

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                   『日本歴史地名大系 京都府』より作成

本文中で玄以とよく相談しなさい、あるいは詳細は彼に言い含めているとあるのに充所に玄以の名前があるのはやや不自然な気がしないでもない。今のところ原本は見つかっていないのでその点は措く。本文書は久我(コガ)家に伝わった「写」であり、充所にない久我氏がなぜ写し取ったのか、その意味を考えてみたい。ちなみに久我家は摂家に次ぐ公家社会の頂点に位置する清華家である。

 

Fig.2 堂上家一覧と久我家

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 荘園領主である久我氏にとって、あるいは公家たちにとって秀吉による検地の噂は脅威だった。実務にあたっていた玄以らに下された朱印状の中身を一刻も早く確認したかったのだろう、この「写し取った」行為自体が検地に対する荘園領主の反応を示している。

 

閏8月2日三千院最胤法親王は「大原勝林院村*11一職」について便宜を図ってほしい旨玄以に書き送っていて*12、彼らが公家たちに文書を写し取らせる機会を与えていただろうことは十分ありうる。また松浦重政は検地を現場で担う一方、吉田兼見から鮭二尾を音信として贈られている*13。これらの点から検地を「行う者たち」と「行われる者たち」の間は近しい関係にあったといえるだろう。

 

正法山妙心禅寺の出納帳である「銭納下帳」には、玄以およびその家臣の松田政行へ金品をたびたび渡していたことが記されている。

 

 Table. 天正13年分「正法山妙心禅寺銭納下帳」

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 前年の近江国検地において「礼銭」や「礼物」を渡し、「誤り隠し候儀」があったなら「一類・眷属・女子共まで」磔刑に処すという起請文を百姓たちに書かせており*14、百姓には厳しい態度で臨み、荘園領主とは妥協しながら進めていったのだろうか。

 

*1:ここでは荘園領主である大きな寺院全般を指している

*2:今年収公する年貢など

*3:前田玄以

*4:「免」は中世では水損・干損・虫損などで領主が百姓らに「免ずる」分を意味し、近世では領主へ差し出す分を指すとされているが、ここでは後者の「領主へ納める分」でないと意味が通らなくなる

*5:前田玄以

*6:天正13年

*7:重政

*8:光元

*9:直次

*10:宗長

*11:山城国愛宕郡

*12:『大日本史料』第11編27冊、22~23頁

*13:『兼見卿記』天正13年10月22日条

*14:『大日本史料』第11編8冊、408~409頁