日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年10月6日施薬院全宗宛豊臣秀吉朱印状(下)

今回いよいよ本文書を理解する上で重要なカギとなる「御理」について考察する。

  

問題の箇所は以下の通りである。

 

 

 

御室戸*1大鳳寺*2事、雖可被成御検地*3御理*4申上条相除者也

 

(書き下し文)

 

御室戸・大鳳寺のこと、御検地なさるべくといえども、おことわり申し上ぐるの条相除くものなり、

 

(大意)

 

御室戸村および大鳳寺村のこと、検地すべきところだが、「事情」を申し述べてきているので除外する。

 

 

前回、自身に対して尊敬語を用いる秀吉が、「理」に「御」をつけるからには相当の貴人だろうと推測した。では一体誰が、どのようなことを秀吉に申し述べたのか。その手がかりになるのが、本能寺の変直後の天正10年6月9日条、次の記述でよく知られる「兼見卿記」である。

 

 

 

早々日向守(光秀)折紙到来して云う、唯今この方(京都)へ来たるべきの由自筆をもって申し来たりおわんぬ・・・白川にいたり予(兼見のこと)罷り出で、公家衆、摂家・清花(清華家)ことごとくお出迎えのため、予この由向州(日向守=光秀*5)に云う・・・

 

 

 

光秀が自筆の折紙で「これから上洛します」と兼見に書き送り、入京する光秀軍を公家衆が総出で出迎えるという記述で、光秀と公家社会との「ただならぬ関係」をそこに嗅ぎ取ることもできる。しかも彼らは摂家や清華家といった公家の頂点に君臨していた者たちである。

 

 Table.1 堂上家一覧

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 Table.2 「兼見卿記」の検地記事

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Fig. 検地が行われると噂された地域

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                   『日本歴史地名大系 京都府』より作成

表2に見られるように、検地が行われるとの噂は公家社会を震撼させた。荘園領主として当然の反応である。9月9日には皇室領である「御料所」まで検地すると噂されていた。

兼見は公家の中山親綱や勧修寺晴豊らと相談し、前田玄以や細川幽斎らを通じて秀吉に弁明しようとしたり、あるいは検地が行われているところへ使いを送り、実際に検地を行っている奉行たちを丸め込むべく「礼銭」を渡すなどさまざまな工作を行い、検地を「有利な」かたちに導くべく動いていた。

 

こうした工作が成功したのか、秀吉は本文書のとおり御室戸・大鳳寺の検地を断念した。公家たちの「論理」=「御理」があったために「本来なら検地すべきだが、特例として除外する」と秀吉に言わしめた「爪痕」は歴史的に重要である。太閤検地が巷間言われるようにスムースに行われず、中世的勢力である荘園領主たちがこれに抗った事実は無視されるべきでない。それを考察することによって、秀吉による検地が何を模索していたのか浮き彫りにすることもまた可能だからである*6。「ある朝目覚めたら、新しい時代になっていた」ということは人があとから辿る記憶やノスタルギーのなかには存在しうるとしても、現実はそう甘くないし、単純でもないのである。

 

*1:山城国宇治郡三室戸

*2:同郡

*3:秀吉による検地

*4:コトワリ、申しわけ・弁明

*5:一般に日向国は「日州」と呼ぶが「島津家文書」1098号のように「向州」と呼ぶ場合もある

*6:中野等氏によれば検地の施行原則は最晩年にいたるまで試行錯誤の連続だったという。同『太閤検地』中公新書、2019年