態申遣候、其方蔵ニ有之五千俵、古米入替候、米・大豆事并当物成*1、代官所へ八木*2能仕候而置可申候、諸卒兵粮ニ可被下候間、可成其意候、然ハ津屋*3ニうたん*4やニ蔵を相拵、ぬりや*5ニ可申付候、五千俵程入置候様ニ造可申候、羽柴侍従*6かたへも被仰遣候、川端之船著*7ニ相立*8、廻ニ堀をほり、用心可然所ニ可申付候、舟を以可被作取候、尚以納米念を入可申候、古米と新米と入替候へと、最前被仰付候*9、定而可為其分*10候、無由断可申付事、肝要候也、
十一月十八日*11(朱印)
一柳市介とのへ*12
『秀吉文書集二』1662号、270頁
(書き下し文)
わざわざ申し遣わし候、その方蔵にこれある五千俵、古米入れ替え候、米・大豆のことならびに当物成、代官所へ八木よく仕り候て置き申すべく候、諸卒兵粮に下さるべく候あいだ、その意をなすべく候、しからば津屋に問屋に蔵を相拵え、塗屋に申し付くべく候、五千俵ほど入れ置き候ように造り申すべく候、羽柴侍従方へも仰せ遣わされ候、川端の船著に相立て、まわりに堀を掘り、用心然るべきところに申し付くべく候、舟をもって作り取らるべく候、なおもって納米念を入れ申すべく候、古米と新米と入れ替え候そうらえと、最前仰せ付けられ候、さだめてそのわけたるべく候、由断なく申し付くべきこと、肝要に候なり、
(大意)
書面をもって申し入れます。そちらの蔵にある五千俵の古米を入れ替え、兵粮米・馬糧の大豆および今年の年貢など、代官所に米をしっかりと蓄えておくようにしなさい。兵卒に兵粮米として配りますので、そのように。津屋に問屋に蔵を備え付け、塗屋造にしなさい。五千俵貯蔵できるようにつくりなさい。羽柴侍従にも申し付けています。川縁の船着き場に蔵を建て、廻りに堀をめぐらせるなど念を入れなさい。舟で作業しなさい。収公した米くれぐれも入念に。古米と新米を入れ替えなさいと先日申したのはこういう事情だったからです。油断のないように命じることが大切です。
本文中の「羽柴侍従」が誰なのか、1年ほどのちの朱印状から候補となる者を一覧にした。
Table. 「羽柴侍従」一覧
上記13名の「羽柴侍従」のうち「ありえそうな者」としては大柿(大垣)に近い、池田照政と稲葉典通だろう。
さて兵粮米などを蓄え、堀をめぐらし、火災を避けるために塗屋造にせよと命じるのはなぜか。徳川家康である。
このころ、秀吉と家康の関係は小牧長久手合戦休戦後ふたたび悪化していた。家康家臣松平家忠は次のように記している。
十月小
(中略)
廿八日乙未、城へ出仕候、上(秀吉)へ御質物(人質)お出し候てよくそうらわんか、またお出しそうらわでよくそうらわんかとの①御談合にて候、おのおの国衆同意に、②質物お出し候ことしかるべからざるのよし申し上げ候、③相州(小田原北条氏)より御家老の衆廿人の起請文越し候、このほうよりもおのおの国衆長人*13衆起請文遣わされ候、
「松平家忠」、『大日本史料』第11編22冊、68頁
下線部①は秀吉へ人質を差し出すことについて、国衆(国人)の合議で決定することを示しており、戦国大名と国人領主(国衆)の典型的な関係を見出せる。
②はその国衆たちが話し合った結果「人質を出すべきではない」との結論にいたったとあり、すなわち秀吉との和平交渉をいったん打ち切ることを意味する。
そして③にあるように小田原北条氏と同盟を結んでいる。のみならず、11月13日には親秀吉派の石川数正が「女房衆ども」、「信州小笠原人質」とともに尾張へ出奔するという家臣団分裂の危機を招いてもいる。
ちなみに北条氏と徳川氏が同盟を結ぶに際して、重臣たち20名もの起請文を携えて交渉の場に臨み、それらを交わしている点は戦国大名権力の特質をよくあらわしていて興味深い。
このように秀吉と家康のあいだはふたたび緊張が高まった。そのため秀吉は戦略上重要な大柿城を、加藤光泰に変え信頼できる一柳直末に委ねたのである。