日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年5月8日羽柴秀長宛羽柴秀吉朱印状写

 
 
 
態申遣候、仍先書*1ニ如申候、四国へ出馬之事、来月三日弥相極候、然者其方事、半分人数召連可罷立候、船等事、堺*2を限泉紀*3諸浦*4之事、舟数書立、扶持方*5遣、其方衆可相越候、堺へハ自此方*6申付候間、堺より南之船共へ計、扶持かた儀可念入候、熊野衆*7初堀内*8悉不残可相立候、陣用意儀、聊不可有油断候、随普請衆*9事、陣前につかへ*10候、早〻可相返候、為其染筆候也、謹言、
  此朱印自其方可遣候、又普請事いか程出来候哉可申聞候、以上、
     五月八日*11                                秀吉御朱印
          美濃守殿*12
『秀吉文書集二』1421号、162頁
 
(書き下し文)
 
わざわざ申し遣し候、よって先書に申し候ごとく、四国へ出馬のこと、来月三日いよいよ相極まり候、しからばその方のこと、半分人数召し連れ罷り立つべく候、船などのこと、堺を限り泉紀諸浦のこと、舟数書き立て、扶持方遣し、その方衆相越すべく候、堺へは此方より申し付け候あいだ、堺より南の船どもへばかり、扶持かた儀念を入るべく候、熊野衆はじめ堀内ことごとく残らず相立つべく候、陣用意の儀、いささかも油断あるべからず候、したがって普請衆のこと、陣前に支え候、早々相返すべく候、そのため染筆候なり、謹言、
  この朱印其方より遣すべく候、また普請のこといかほど出来候や申し聞くべく候、以上、
 
(大意)
 
 手紙をもって申し入れます。先日の書に認めましたように四国長宗我部攻めの日取りを来月三日に決めました。そなたは、軍勢の半分を連れて出陣してください。舟の徴発については堺を北限に和泉・紀伊両国諸浦にある舟数を書き出し、扶持方を浦々へ派遣し、そなたの軍勢を送ってください。堺にはこちらから命じますので、堺以南の舟の扶持方にのみ集中してください。熊野衆はじめ堀内氏善ら残らず出陣させ、準備万事怠りなきようにしてください。普請の者たちは陣屋の前に支えておりますので、早々に帰してください。そのため筆を執りました。謹言。
 
この朱印の趣旨そなたの家臣を遣わし、浦々へ告げ知らせてください。また普請はどのくらいまで済みましたでしょうか、お伺い申し上げます。
 
 
紀州制圧直後秀吉は秀長に和泉・紀伊両国を与えており、本文書に対し翌9日に以下の文書を秀長は「泉州紀州浦々中」へ発した。
 
 
 
[参考史料]
 
態申遣候、来月三日四国御馬*13を出され候、さかへ浦*14ゟこのはう*15の舟一そう*16も於隠ハ、後日成敗可仕候、舟かた*17扶持かた丈夫*18可申付候之間、来廿七日八日紀の湊*19まて諸舟こきよせ可申候也、 
   猶以此者*20為奉行遣候間、舟数しるし*21可申候、以上、
                        美濃守
  五月九日*22                   秀長花押
    泉州
    紀州浦々中
『大日本史料』第11編15冊、237~238頁
 
 
(書き下し文)
 
わざわざ申し遣し候、来月三日に四国御馬を出され候、堺浦よりこの方の舟一艘も隠すにおいては、後日に成敗仕るべく候、舟方・扶持方丈夫に申し付くべく候のあいだ、来たる廿七日八日紀の湊まで諸舟漕ぎ寄せ申すべく候なり、 
   なおもってこの者奉行として遣し候あいだ、舟数記し申すべく候、以上、
 
(大意)
 
書面をもって申し入れます。来月三日に四国攻めのため秀吉様が出馬されます。堺より南方において舟を一艘でも隠す者がいたら後日処罰します。舟方・扶持方しっかりと命じるので、来たる二十七、八日まで紀之湊まで舟を集めるようにしてください。
 
なお、この者を奉行として派遣しますので、舟数書き記すように。以上。
 
 
 

 

Fig. 和泉紀伊周辺図

 

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                   『日本歴史地名大系』和歌山県より作成

 

ともに写であるためところどころわかりにくいところがあるのが悔やまれる。

 

紀州を攻略した秀吉は次に四国の長宗我部攻めの準備に入った。

 

ここで太田城攻めで水没させた郷村の復旧が気になるところだが、史料には見えない。通常合戦に勝利した者は城はもちろん、村々を放火するなど破壊の限りを尽くすので誰も気にしないのかもしれない。

 

文書にあるように秀吉や秀長は四国攻めのために徴発する舟を確保するため「舟改」を行い、一艘たりとも隠し置くことのないように命じている。さながら「浦検地」というべきものである。

 

二通の文書を見る限り和泉・紀伊の豊臣大名に上りつめた秀長ではあるが、8日付の秀吉朱印の趣旨を、そのまま「泉州・紀州諸浦々中」へ下達しており自立性や主体性は感じられず、秀吉の下命を迅速に実現すべく奔走する、政権の吏僚的性格が濃厚である。

 

また両国「諸浦」への伝達ルートがすでに形成されていたところも見逃せない。さらに「扶持方」、「舟方」など現地で差配する機構も整いつつあったようだ。

 

 

 

 

*1:5月4日一柳直末宛書状に「よって長曽我部成敗のため来月三日四国にいたり出馬渡海候」(1418号)とあり、また同日付黒田孝高宛にもほぼ同文の書状(1417号)が発給されていることから、秀長にも発せられたと思われる

*2:摂津国住吉郡および和泉国大鳥郡

*3:和泉・紀伊両国

*4:海に面した郷村,「浦々」の意

*5:兵たちに与える米などを取り扱う役職、職務

*6:秀吉

*7:雑賀一揆を構成していいた国人

*8:氏善。紀伊新宮城主、図参照

*9:出城などを築く陣夫

*10:支え

*11:天正13年

*12:羽柴秀長

*13:秀吉の馬

*14:堺浦

*15:和泉・紀伊、つまり堺より南方

*16:

*17:舟数をとりまとめる役職

*18:確実に

*19:紀ノ川河口付近の湊

*20:この文書をもって告げ知らせた者、本文書は写なので原本に具体的な人名が記されていた可能性もある

*21:記し

*22:天正13年