日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年2月21日入間郡福岡郷宛北条家禁制

 

 

    禁制      (所付欠、『埼玉県史』は武蔵国入間郡福岡郷に比定している。下図参照)

 

右於当郷濫妨狼籍*1堅令停止訖、猶或*2田畠一本ニ而も抜取*3、或竹本一本剪取付、縦公儀*4之雖為御中間小者、則搦捕岩付*5当番頭可披露、況於其下*6為始御一家衆*7家老、何之代官候共、無用捨可及其沙汰、若令思慮*8、狼藉族指置、於内〻侘言*9之由至之*10聞届、領主百姓共却而可為罪科者也、仍如件、

 

   庚寅(虎の印判)

 

      二月廿一日*11                 奉

                         善九郎*12

 

 

(『埼玉県史 資料編6』中世2、1510文書、747頁)

 

 

 

(書き下し文)

 

    禁制     (所付欠)

 

右当郷において濫妨狼藉堅停止せしめおわんぬ、なおあるいは田畠一本にても抜き取り、あるいは竹本一本も剪り取るについては、たとい公儀の御中間・小者たるといえども、すなわち搦め捕り岩付当番頭へ披露すべし、いわんやその下において御一家衆・家老をはじめとして、いずれの代官にそうろうとも、用捨なくその沙汰に及ぶべし、もし思慮せしめ、狼藉の族指し置き、内〻において侘言の由至聞き届くに至りては、領主百姓どもかえって罪科たるべきものなり、よってくだんのごとし、

 

   庚寅(虎の印判)

 

      二月廿一日                

 

                         善九郎奉る

(大意)

 

  禁制     (所付欠)

 

*13に掲げたように当郷において掠奪などを働くことを禁止した。田畠から作物を一本でも抜き取ったり、竹木を伐り取る者は、たとえ北条家直属の中間・小者であろうとすぐさま捕らえ、岩付の当番頭のもとへ連れて行くように。ましてそれより低位の北条氏一門の家老をはじめ、どこの誰それの代官であっても、黙認せず捕縛しなさい。もし何か含むところがあって、狼藉者を放置し、内々に弁明を聞き入れることなどの噂を耳にした場合は領主・百姓ともに罪科とする。以上、善九郎が文書の趣旨を伝えた。

 

                 

 

 

図1. 武蔵国入間郡福岡郷と岩付城の位置関係図

 

                     『日本歷史地名大辞典 埼玉県』より作成

小田原北条氏の禁制発給件数は下表のように氏政、氏直の代に急増している。これは「大途」であるとか「公儀」であるとか名乗ることにともなって、つまり「公権力」へ変貌を遂げようとする動向にともなっての現象と言えるかもしれない。

 

表1. 小田原北条氏の禁制発給件数

                    「大日本史料総合データベース」より作成



「たとい公儀の御中間・小者たるといえども、すなわち搦め捕り岩付当番頭へ披露すべし、いわんやその下において御一家衆・家老をはじめとして、いずれの代官にそうろうとも、用捨なくその沙汰に及ぶべし」の文言が示すように、刈田や掠奪を行うのは敵兵である豊臣軍ではなく、後北条氏の将兵であった。こうした禁制を大名が発する郷村などを「味方の地」などと表現している場合も多く、領民は敵兵は無論、味方の軍隊からの暴力をも防ぐ必要に迫られていた。戦国期の戦争が決して「国盗り」ゲームなどではなく、「人捕り」ゲーム、つまり奴隷狩りであったことに疑いを挟む余地はない。

 

次回採り上げるが、この2月に出された豊臣・徳川連合軍の軍律には「下知なくして男女乱取すべからず」とある。これは雑兵たちの目的が勝敗より掠奪にあり、戦闘に注力すべきことを命じたものであるが、「下知なくして」という文言は「勝利を収めたあとなら乱取を認める下知を出さないでもない」という含みがある。

 

 

言ってみれば「万人の万人に対する闘争」という自然状態であって、「公権力」たる後北条氏にとって見過ごすことの出来ない問題であった。したがって決して内々に済ませることなく「公儀」=小田原北条氏の裁定を受けよと命じているわけである。この論理は秀吉にとっても同様で「公儀」権力の確立過程をもって中世から近世への画期と見ることもできる。

 

 

また「公儀」権力として、いかなる者の関係者であろうと容赦なく処断するとも述べている。昨今「ネポティズム」(縁故主義)が海外ドラマで批判の対象として採り上げられている。ウクライナドラマ「国民の僕」はまさにその代表であり、また韓国映画の「ソウルの春」でも「反乱軍」*14であるハナ会が劣勢に立たされると血縁・地縁・学閥を総動員して味方を集めろと多数派工作を行っている。それだけ「縁」の力は強大なのである*15。しかし「縁」によって裁可が左右されることは「公儀」の名に恥じると後北条氏は理解していた。つまり現実にはびこっている縁故主義を断ち切ることで「公儀」たろうとしたとは言えないだろうか。

 

 

*1:

*2:「或~、或~」で「あるいは~あるいは~」と読む。意味は様々な事例を列挙する場合、「~といい、~といい」のように用いられる

*3:「刈田」または「刈田狼藉」と呼ばれた。自力救済行使のひとつでもある

*4:小田原北条氏のこと

*5:武蔵国埼玉郡岩槻城

*6:「公儀」すなわち小田原城主北条本家以下の

*7:北条氏一門

*8:ここではいわゆる「忖度」といった意味

*9:弁明

*10:「于」

*11:天正18年、グレゴリオ暦1590年3月26日、ユリウス暦同年同月16日

*12:善九郎は「奏者」という取次役。差出人は「虎の印判」を捺している小田原北条氏宗家

*13:本来なら「禁制」の文言の下に適用範囲を示す郷村名や寺社名などが書かれる。これが通常の文書の「充所」にあたるが、厳密には文書の請取主体ではなく、法の適用範囲を定めているので「所付」と呼ぶ

*14:ドラマの中で全斗煥は「勝てば革命、負ければ反乱」とぶち上げるが、結果として彼らは反乱軍ではなくなった。また下官が「クーデター」を起こす気ですか」と問うと気色ばんで「革命と呼べ」と反論するシーンもある。これはクーデターが権力の簒奪を目的とした不当なものであるのに対し、革命は専制不法に対する暴力をもってする人民の反抗の権利の肯定・主張の思想のもと正当な行為であるという西洋思想に立っていることを示している。もちろん「易姓革命」に根ざす漢字圏の「革命」とは大きく意味を異にし、中国では王朝交替を正当化する論理であったが、日本では「代替わり」や「改元」などに意味が変わっていった。したがってヨーロッパ言語の「revolution」などと漢字圏の「革命」を同一視するのは誤解を招きかねず、要注意である

*15:だからこそ網野善彦は「無縁」の原理にこだわったと言える